第六章 「ヴァルハラ」


 宇宙に出てから数時間、シャトルは順調に進んだ。
 ミリスはシャトルのコクピットに移動した。そこで始めて宇宙というものを実際に目にした。
 無重力空間、星の海、暗黒の世界、そして眼下に広がる光る青い星。それはミリスに不思議と郷愁を起こさせた。
 地球の周回軌道から遠心力による加速を行なって、ラグランジュ・ポイントと呼ばれる、重力の中和点へと進路を取った。
 ヴァルハラはラグランジュ3という地球を挟んで月の反対側にあった。
 ここは昔、多くのコロニーが存在したが、地球圏望別によって、人間はいなくなり、破壊されたコロニーや宇宙船の残骸が漂う暗礁宙域となっていた。
 シャトルの視界に戦争中の破壊された機械の残骸が見え始める。
 それはやがて量を増して行き、次第に視界を埋めつくさんばかりになっていった。そして、その中心からゆっくりとシルエットを現わして来る巨大な物体。それは破棄されたコロニーだった。
 その大きさにミリスは圧倒されていた。何十キロ、何百キロに渡り、残骸が浮遊する様ですら、今だかつて体験したことのない景観であったが、そのコロニーの姿はもう鉄くずになっているとはいえ感動的だった。
 シャトルはコロニーの端、円筒形の口の部分から、その内部へと進んだ。表面にガラスの窓を持った解放型のコロニーである。その端の部分は完全に崩壊していた。本来ならばそこは付け根に当たる部分であり、太陽光を反射するミラーや熱核エンジン、移動用の核パルスエンジン等が設置されてあるべきところだった。
 戦争のためだろうか。その部分はごっそりと失われて、コロニーは本当にただの直径約六キロメートル、長さが三十キロメートル強の筒となっていた。
 ヴァルハラはその内部に残骸と一緒に存在していた。なるほど、身を隠すにはちょうどいいかも知れない。
 ヴァルハラの外観は大昔の宇宙ステーションといった趣だった。本体である細長い円筒形のセントラル・チューブを中心に、各種のモジュールが枝葉のように着いている。それは、遠くからでは巨大な大木のようにも見えた。奥にはセントラル・チューブから延びたアームによって支えられた、二重のリング状の遠心重力ブロックがそれぞれ双方向に回転している。
 コロニー、そしてヴァルハラの姿を目の当たりにすると、このような人工物を作り上げた人間というものに対して驚きを隠せない。今ま でのミリスの生活からは想像も着かないような光景が、目の前に広がっていた。
 シャトルはセントラル・チューブの外側のポートから内部に進入した。そこは専用の巨大のエアロックとなっていた。
 十分程の待機時間を経て、ようやくシャトルから降りられることとなった。
 ヘスがシャトルの乗組員と、まだ意識の戻らないメスリーとクリエを運び出す。メスリーの出血は止まっていた。外からは傷の具合は判らない。今は二人の傷が深くないことを祈るばかりだ。
 ミリスが手を貸す間もなく、二人は現れたヴァルハラの人間達に渡された。全員私服にお揃いの膝まである白衣という出立ちである。今はただ、彼らに託すほかに無かった。
 ミリスはバランスを取りながら、シャトルの昇降口から、ゆっくりと床に着地する。
 だが、その反動をコントロール出来ず、ふわりと体が宙に舞い上がった。慌てて手をばたつかせ、姿勢を変えようとする。
 そのミリスの腕を、細い白い手が掴んだ。ミリスの視線の先に、微笑む女性の姿があった。
 金髪を短く刈り込んでいる。切れ長の目と青い瞳、そして高い鼻、赤いルージュを引いて、耳にはピアスが光っていた。彼女も白衣を着ていた。
「大丈夫?」
 女性が聞いた。軟らかい、優しい声だった。
 ミリスが頷いたのを見ると、女性は笑ってヘスのほうに顔を向けた。
「ヘス、メスリーとクリエのことをお願い。私はこの子と先に行っているわ」
「判りました」
 一瞬、顔をしかめたヘスだったが、すぐに運ばれて行く二人を追って行った。
 それを見届けると女性は、ミリスの手を引いて自分の側に寄せた。ミリスは足を着けた。今度は浮き上がらなかった。
「膝を使って慣性を消して。踏みつけるようにすれば体は浮かないわ。直ぐに慣れると思うけど」
「あなたは?」
「私はナースチェンカ・ロマノヴナ・イルジニフよ。ようこそヴァルハラへ。ミリス・ヤワ」
「よ、よろしく」
 とミリスは頭を下げた。
 さて、と言ってイルジニフは手を離し、ミリスに着いて来るよう促した。
 ミリスはイルジニフの後に着いて、遠心重力ブロックにある居住区画とへ向かった。途中からエレベータに乗って下に降りる。
 右側の窓にはヴァルハラのセントラル・チューブが見える。周囲はすっかりコロニーと残骸に囲まれていた。
 進行方向に向かって足を向けていたので、すぐに体が浮き上がろうとする。だが、直ぐに全身に重力を感じるようになってきた。
 降り立った居住区画は、地上程では無いにしても、歩き回れる程度には重力を感じられた。
 イルジニフと二人で、大きくPXと張り出された看板の下まで歩いてゆく。そこは売店だった。電気が消えており閉店しているようだった。スチール製の、高さが二メートル近くありそうな六段の棚が何列も並び、棚の上には生活品や食料品など雑多な物が整理されて置かれていた。店は奥に広がっていて、見た目よりも大きい感じだった。
 イルジニフは、構わずその奥へと入って行く。幾つかの棚の脇を抜けて、開けた場所へと出ると、そこには衣服をつり下げたハンガーが幾つも並んでいた。周囲を取り囲む棚の商品も衣類関係のものだった。私服の他にヴァルハラ専用の制服もあった。
「あなたに合うサイズとなると難しいわね」
 適当に並べられたものを手に取って、幾つかは戻さずに、もう一方の手の上に乗せて行く。服、下着、靴。上下を一通り揃えてミリスに手渡した。
 ミリスは両手でそれを受け取り、抱え上げた。
「これは何?」
 イルジニフは笑って言った。
「着替え。そんな格好じゃ駄目でしょ。女の子なんだから。部屋を用意したから、シャワーでも浴びて休みなさい」
 確かにミリスの姿はお世辞にもましとは言えなかった。繰り返した戦闘によって姿だけでなく、体の疲れも相当溜まっている。今の彼女はアリア、エディの死、メスリー達への心配、そして、ジェニューインへの怒りだけが支えているようなものだった。
「わたしは!」
 反論しようとしたミリスだったが、イルジニフはそれを制して言った。
「あなたの気持ちは判るけど、焦っても仕方がないわ。今はとにかく休みなさい。明日からまた色々とあるんだから」
 ミリスは何も言わず従うことにした。確かにどんなに焦っても、自分に出来ることはない。しかもここは宇宙である。勝手が違うのはもう既に思い知らされた。
 居住区に小さな一室が用意されていた。シングルのベッドが一つとクローゼット、机の上にはヴァルハラの情報端末とモニター、それだけで部屋は一杯だった。部屋の奥に洗面台とシャワー室、トイレがある。薄いピンク色の壁と柔らかなカーペットが狭いながらも暖かい印象を与えた。窓は無かったが、天井一杯に広がる軟らかい光で、明るさは十分だった。
 イルジニフは部屋の鍵となるIDカードをミリスに手渡し、去って行った。
 一人になったミリスは、直ぐにシャワーを浴び始めた。熱めの湯を頭から浴びながら、ふと今までのことを振り返った。
 アリア、エディ。見知った人が死んだのは両親以来だ。しかもそれは唐突に訪れた。知り合った人間が突然死ぬ。ミリスには体験したことのないものだった。
 二人のことを考えるとまた涙が零れた。それをシャワーの湯で拭い去る。胸の奥底から何かが込み上げているが、それにどう対処していいのか考えもつかなかった。気持ちを強く持たないと口から慟哭が洩れる。それは両親が死んだ時に自分自身と交わした、してはならない約束だった。
 だが、そんな約束など、いとも簡単に破られてしまった。長い間、ただそこに立ったまま、シャワーを浴び続けた。
 浴室から出たミリスは、裸のままでベッドの端に腰を降ろした。カーペットの上には脱いだ服が散乱していた。それらを眺めると黒ずみ、いたるところにほつれや破れた箇所が見て取れる。もう実用には耐えられそうに無かった。
 服の数カ所に血痕を見つけて、体に無数の切り傷があることを初めて知った。痣も多い。
 改めて、ここ数日の行程が尋常ではなかったことを思い知らされた。メスリー達が訪れたことで、ずっと守り続けてきた日常が、不意に覆されてしまった。
 ミリスは目を閉じた。体が温まったのと、少し高めに設定された室温のせいで、急激に眠気を感じ始める。何度も意識が遠くなり、ベッドの傍らに置いてある着替えに手を出すこともなく、そのまま横になると同時に深い眠りに落ちていった。

 ミリスは眼を覚ました。一瞬、頭に痛みが走る。どれだけ時間が経たのか想像がつかない。部屋は眠った時のままだ。
 ドアの鍵が開く音がして、足音が近づいてくる。部屋に入ってきたイルジニフは驚いた。
「そんな格好で寝てたの? 起きるのが遅いから迎えに来たの。ヴァルハラにだって男もいるし、みんな紳士というわけじゃないのよ」
「マスター・キーを使って入ったんでしょ?」
「それはそうだけど」
 ミリスは部屋を見回して言った。
「今は何時?」
 イルジニフは腕を組んで首を傾げた。
「一応、夜の側に入っているけど。あなたと別れてから二十時間近く経つわね」
 二十時間! シャワーを浴びた後、直ぐに寝てしまったから、随分長い間眠ったことになる。起きたばかりのときは少し頭痛がしたが、今はスッキリしていた。
 イルジニフはベッドの側まで来ると、置いてあった新しい衣類を取り上げた。
「さあ、早く着て」
 それを受け取って着始める。
「これも、ちゃんと着けてね」
 そう言って渡されたのはブラジャーだった。肩紐の無い幅の広いものだ。ミリスは胸に当てて両手を背中に回すが、背中のマジック・ファスナーが定位置で止められない。一度外して前で止めようとするが、イルジニフはそれを阻んだ。
「きちんと着けるのよ。そう、そうやって」
 イルジニフに促されて、不器用ながらもようやく着けることができた。自分の胸にあてられたものは、あまり締めつけはしなかったものの、その存在感は大きかった。今までは大人の女性がするものと思っていたので、何か別人のような、少し大人になったような気分になり、胸が高鳴った。
 シャツは黒で袖は肘まであった。体によくフィットして、細身のラインをすっきりと見せる。胸の部分だけが突き出しているような感じだ。ブラジャーのパッドによってほんの少しだけ強調されている。首は大きくVの字になっていた。半ズボンと軍用のジャケットは、色こそ違うものの、以前と同じようなものだ。だが、ジャケットはヴァルハラのマークの入った専用のものらしい。帽子と靴も新品だった。
 イルジニフは前の格好と似たようなものを選んでくれているようだった。ミリスにはファッションについて特別の感心を持っていなかったが、一番動き易い格好でもあったので、それで十分だった。
「必要なものがあればPXから勝手に持って行っていいわ。それと」
 そういってミリスに二十センチ四方のビニル・パッケージを手渡した。
「あなた、もう始まってる?」
 渡されたものを手に取って、イルジニフの言っている意味が判った。それは生理用品だった。ミリスは首を振った。
「そう。でも、多分もうすぐね。また使い方は教えてあげる。持ってなさい。必要になるわ」
 イルジニフの顔が一瞬曇ったような気がした。ミリスはありがとうと言ったが、その処置に困って、それをベッドの端に置いた。
 では、といってイルジニフはドアの方向へと歩き出した。
「今日は色々と検査を受けてもらうわ。忙しくなるわよ。そういえば、メスリーとクリエも気がついてるわよ。と、いっても二人とも傷の手当てや検査で動けるようになるまでしばらく掛かりそうよ。あなた達が来たときは興奮して、みんなの滅菌処理もしてなかったからね」
 興奮した、という意味を聞こうかと思ったが、今は言葉を飲み込んだ。
「そうそう、ひとつ聞きたいんだけど」
 と言ってイルジニフは立ち止まり、考え込んだ。目を閉じて人指し指を顎に当てる。
「今、いつか判る?」
 質問の意味が判らなかった。ミリスはしばらく考えてみたが、
「二百八十二年の十二月七日」
 取り敢えず、そう答えた。多分あっているはずだ。日付などほとんど気にしたことがないし、時計に縛られたこともない。
「そうね。今はそういうことにしておきましょう」
 何だかおかしなことを言う。だが、そんなミリスの怪訝も気にする風でもなく、イルジニフは部屋から出た。ミリスもそれに続く。
 そのまま二人で医務室へと向かった。
 歩く度に体がふわふわと持ち上がる。数分歩いたところに医務室はあった。
 医務室といっても入ってみると規模は意外と大きい。ドアを開けると更に数十メートルの廊下が延びている。左右にドアが幾つも並び、奥には大きなガラスで仕切られた部屋もあった。そこに備わった機器も本格的な医療施設そのものだ。
 ドアの一つに気がついて、ミリスは足を止めた。ドアの横にはキニン・メスリーとクリエ・ジュオの名前が張り付けてあった。
「二人にはあとで会わせてあげる。それよりもあなたの検査よ。協力してくれるんでしょ?」
 言う通りにするしかない。ミリスは頷いた。
 検査は聴診器を当てるところから始まり、CTスキャン、脳波測定の他、幾何学模様が次々と変化していく映像を見せられたり、ノイズや動物の鳴き声のような音を聴かされたりもした。何度も、よく解らない機械のついたベッドの上に横になった。それこそ考えられる検査は全てやり、検査できる体の部位は全て検査しつくしたという感じだった。
 いろんな部屋を回らされたが、ミリスを診たのは全て女性だった。イルジニフは、男はいると言っていたが、ヴァルハラに来て男の姿を見たことが無い。スタッフの一人にそれを話すと、博士は彼氏をモビルスーツに取られて以来、男性不信だから、と笑って言った。
 口にしたのは小さなパックに入ったゼリー状の栄養剤と、あとは造影剤くらいで、ほとんど休みもなく七時間近くぶっ通しで検査が行なわれた。
 採血も二度行なった。一度めは早い段階で、二度目は検査の最後としてイルジニフ自らが行なった。
 イルジニフはMS関係の科学者で、ヴァルハラの総責任者でもある。つまり医者では無かった。
 その危なっかしい手付きにミリスは不安を覚えたが、痛みは我慢したので、他に大きなトラブルはなく採血は終わった。
 イルジニフはずっと付き添ってくれていたが、一体、自分に何を期待しているのだろうと思う。
 検査が一通り終了すると、ようやく一息ついた。自室に戻り、ベッドに体を預ける。意識は適度に興奮していて、眠れそうには無かった。
 ものの十分ぐらいすると、ベルが鳴って机の上のモニターにイルジニフが映し出された。
「さっきはごくろうさま。寝てた? 食事を用意したから、食堂にいらっしゃい」
 ミリスが言葉を発する間もなく、モニターは消えた。その強引さに疲れを感じて、大きく溜め息を付いた。
 食堂は直ぐに判った。案内板のままに通路を進むと、かなり大きな空間があり、いい匂いが漂ってくる。別室になっているわけではなく、通路を大きく開けてテーブルを並べた格好になっていた。テーブルの数は十以上はあった。周囲に自動販売機も立ち並び、開けた大きなガラスの向こう側に外の景色が見えるようになっていた。だが、コロニーの中にあるヴァルハラからの眺めは、まるで滅び去った世界だった。
 イルジニフは一番奥のテーブルの隅に坐っていた。ミリスを見つけて、手を振る。
 ミリスも同じテーブルに、イルジニフとは少し離れた場所に座った。
「疲れた?」
「少し」
 ぼそりと答える。イルジニフは笑顔を絶やさなかった。ようやく、この人はいつもこうなのだろうということが判った。
「おいでなさいな」
 イルジニフはミリスを連れてカウンターへと向かう。強引に自分を連れ回そうとする態度に気が滅入った。
 厨房の奥で数人が働いている。カウンターには料理を並べてバイキングのように必要なものを取り分けられるようになっているが、今は何もなかった。
 やがて奥からプラスチックのトレーが二つ出された。ミリスとイルジニフはそれを持って席に戻った。ぱっと見ただけでもグラーネで取った食事よりは明らかに落ちる。
 ふと、トレーを配っていたアリアの笑顔を思い出した。
「ミリス!」
 聞き慣れた声がした。振り返ると、通路側のテーブルの向こうにメスリーとクリエが立っていた。メスリーは手足に包帯をしているのが見える。二人とも黒のタンクトップにカーキ色のパンツといった楽な格好で、顔色も随分とよかった。
 二人は先にカウンターでトレーを受け取り、同じテーブルの、空いている席へと座った。
「ミリス、元気そうじゃない。よかった」
 クリエが満面の笑みで言った。
「二人も。怪我は?」
 メスリーとクリエを顔を見合わせた。
「大丈夫、たいした事ない。メスリーは出血はしたけど、問題ないってことだわ」
「そう。直ぐにだって戦えるわ」
 メスリーの言葉をイルジニフが制した。
「三人とも焦らないで」
 イルジニフに顔を向けてメスリーが言った。
「こんなところでじっとなんてしてられない。エディや他のガンダムのパイロット達やグラーネ1、2のクルー達、みんな死んだのよ。それにアリアも。彼女、民間人なのに私が誘ったばかりに」
「だからってどうするの? 体だけ大丈夫でも、それだけじゃどうしようもないじゃない」
 メスリーは声を荒らげた。
「ヴァルハラにはまだガンダムがあるはずだわ。それを貸してください。ジェニューインは必ず倒します」
「ファイクがいくらあっても、ザクには勝てないでょう?」
「博士さあ」
 クリエが口を挟んだ。
「あたしらが当て馬だってこと、知ってたんじゃない?」
 クリエはイルジニフを睨んでいた。
「博士、何者なの? コロニー側の人間?」
 イルジニフは喋り出した。
「私はただ、ヴァルハラに来たかっただけ。この場所は昔の資料を見て知っていたわ。だから連邦軍に協力したの。ヴァルハラにはフェイクがある。戦力増強を迫られていた連邦軍首脳達は飛びついた。ザクを発見してから、同じようなことを期待してたんでしょう。ザクを見つけたのは閉鎖されたコロニー軍との戦争時代の民間研究所だったけど、そこでもう一つ、別の資料を見つけた」
「別の資料?」
「ヴァルハラに何があるの?」
「フェイクとかザクって何?」
 三人が三様の質問を浴びせる。イルジニフは両手を振った。
「そんなに一度に聞かないで。えーと、ヴァルハラは昔の連邦軍のモビルスーツ開発施設。ここでは新技術を使ったモビルスーツ開発が行なわれていた。コロニー軍と休戦になる直前の話よ。連邦軍は次期主力モビルスーツとして開発されたザクA2++・ジェニューインを地上で開発していた。でも別の計画があって、そのために今までとは全く違うモビルスーツを開発した。それがガンダムよ。ヴァルハラはその開発・実験施設なの。もっとも、あなた達が使ったのは、その後で作られた別物。機能限定版の簡易量産型、ガンダム・フェイク。機能限定版といっても、実際中身は別物の、ごく普通のモビルスーツよ。ザクはガンダムとは別の面で戦闘用モビルスーツの最終形態として開発されたから、フェイクとの性能差は段違いだわ。休戦のどさくさでヴァルハラや幾つかの軍、民間施設が破棄、抹消され多くのものが失われた。それから二十年も経った。私の目的はガンダムのオリジナルを手に入れること。これは当時の軍首脳でも一握りの人間しか知らなかった。フェイクは二十二体発見されたけど、私にはどうでもよかったし、フェイクのスペックを見た今の連邦軍は、脱走したザクの足止めにしかならないと思ったのね。ザクのテスト・パイロットだったヴィルヘルム・カーゾンがいつ彼らと接触したかは知らないけれど、そのためカーゾンはザクを奪って逃げた。カーゾンの目的を知ったから、メスリーに追撃を命じた。もっとも、戦果よりも時間稼ぎぐらいしか期待していなかったようだけどね」
「あたしらはその程度か」
 クリエが両手を頭の後ろに回して椅子にもたれ掛かる。
「あの大佐、もともとあたしらを使い捨てにするつもりだったんだ」
「カーゾン少佐の目的ってサテライト・キャノンね」
「あら、よく知ってるじゃない、メスリー。ザクと一緒に見つかったのはコロニー軍との戦闘記録についての資料。その中にモビルアーマー、レジ・ドラとサテライト・キャノンについての記述があるの。サテライト・キャノンは送電衛星を中継されたマイクロウェイブを受けることによって凄まじい攻撃力を発揮するエネルギー兵器よ。それを搭載した拠点制圧用モビルアーマー、レジ・ドラが地球に進攻したんだけど、休戦によって隠されていたの。それをラスティアースが捜し出した」
「モビルアーマーのレジ・ドラと、それに搭載されたサテライト・キャノン。それを巡ってカーゾン少佐とブレナン大佐、そしてラスティアースのイレーネ・ネリスとかいう女が争っている」
「ブレナン大佐はラスティアースと手を組んだと言っていたけど?」
 クリエがメスリーに言った。メスリーは連邦軍とラスティアースの共闘など信じていないようだった。
「レジ・ドラの熱核エンジンを使用するために連邦軍と手を組んだのなら、レジ・ドラが動けばそれまでってことね」
 二人に向かってイルジニフが言った。
「ブレナンもイレーネ・ネリスも、独自に動いているみたい。色々通信を拾ってみても、軍や反連邦組織の中からそんな話は出て来ないわ。暗号文でもね。結局、自分のために使うつもりよ」
「阻止しなければ。そんなもの誰にも使わせるわけにはいかない」
 メスリーが拳を握りしめた。
「カーゾン少佐が接触したっていう彼らって誰? カーゾンは確か、ターン・タイプと言ってたけど」
「それについては調査中。今は話す事は無いわ」
「ミリスのことも聞きたい。知ってるんだろ」
 イルジニフは首を振った。
「先に食事にしたら? 誰も手をつけてないじゃない。今、ミリスの検査結果を確認中。後で話すわ。先に案内したいところがあるから」
 ミリスは自分のことが話題に出たので、内心胸が高鳴った。今ははぐらかされてしまったが、後で何か聞けるのだろうか。
 取り敢えずミリス達四人は食事を済ませた。原型を止めた品はほとんど無く、仕切りに分けられた中身はゼリー状に固められたものが数種類と簡単に調理された細切れの野菜や肉ばかりだった。いくら研究モジュールがあるといっても、食料を自給自足できるとは思えない。これらはどこから調達しているのだろうか。そんなことをミリスは考えた。
 食事の間は誰も話さなかった。味気ない時間は直ぐに終わった。絶対的な量は少ないにも関わらず、不思議と食事をしたという満足感だけは大きくなった。そう感じさせる薬品でも入っているのだろうか。自分の家で野菜を作ってそれを食べているミリスにとって、メスリー達と食べたレーションよりも不健康に感じた。
 四人はほとんど同時に立って、食べ終わったトレーをカウンターに戻すと、イルジニフを先頭にぞろぞろとエレベータへと向かった。
 エレベータに乗って、遠心重力ブロックからセントラル・チューブへと向かう。エレベータを降りると、さらに先にあるモジュールへと向かった。
 ミリスは無重力状態での移動にはまだ慣れず、進行方向が変わる度に手足をばたつかせなければならなかった。時にはイルジニフに手を引いてもらった。
 セントラル・チューブは直径六十メートル、長さは八百メートル近くあった。そこから枝葉のように研究・実験用モジュールやコンテナが付いている。コンテナの幾つかはモビルスーツ用だった。
 ミリスはその一つ、遠心重力ブロックとは逆の一番端ある大型のモジュールに入った。入った瞬間にひと目で判った。ここはモビルスーツ用の管制室であった。
 前面に大きな耐圧ガラスがあって、数人の人間がシートに坐ってコンソール・パネルを見ている。ヘスの姿もあった。
 ガラスの向こうにはガンダム、イルジニフに言わせればフェイクが数体並んでいた。背中には橇にも似た大きなパーツが取り付けられている。中心が折れ曲がるようになっている。上下の端にはノズルが取り付けられていて、その基部も四方に可動するようになっている。左右の腰辺りにはブースターに繋がった巨大なライフルの先端のようなものがあった。
「あのガンダムは?」
「整備が終わったフェイクよ。シュレッド・ライナーを付けてあるの。輸送用のエア・ライナーからパーツを流用したものだけど、機動性は十分。変形させると高速移動やビーム・ライフルも使用出来るわ」
 イルジニフがシートに座るスタッフの一人に合図を送る。一機のガンダム・フェイクがマニピュレータによって正面まで移動した。
 シュレッド・ライナーが中間から折れ曲がり、ノズルが後方へと集中する。そして折り畳まれた羽が左右に広がり、腰のライフルが前方へと向いた。ライフルの外側のカバーが開き、中からグリップが現れる。フェイクの腕がそれを握った。
「どう?」
「見た目だけじゃ何とも」
 メスリーとクリエがそんなことを話す。
「このフェイクってやつじゃ、ジェニューインには勝てない」
「判ってるわよ」
 クリエの言葉に腹を立てたのか、イルジニフの声の調子が強くなった。
「見せたいものは奥にあるの。ヘス?」
 ヘスはスタッフの一人と何やら話して、A四サイズのプラスチックの板状のものを受け取った。それをイルジニフまで持って来る。
「ミリス・ヤワの検査結果です」
 ヘスの言葉に、ミリスはイルジニフに渡されたものを覗いた。大きなパネルとボタンが幾つか付いている。パネルに何か映っているが、よく判らない。
 イルジニフは、うーんと唸りながら、人指し指を顎に当てる。瞳は険しくなっていた。長い間、無言でそれを眺めていたが最後にひとこと、なるほどねぇ、と呟いた。
「ちょっと、何なんだよ、それ。ミリスのことなんだろ?」
 クリエの質問には答えず、イルジニフは振り向いて、
「さあ、行きましょうか」
 と言った。ミリス達三人はお互いに顔を見合わせたが、イルジニフに付いて管制室の奥の扉を開けて中に入った。
 狭い廊下を数メートル進んで、また扉を潜る。
 そこは別の小さな管制室だった。さっきよりも小さく三分の一くらいの広さしかない。スタッフ用のシートも二つしかなく、誰もいなかった。管制室の明かりはうっすらとしか付いていない。やはり大きなガラスがあるが、その向こうの広がる空間は完全に明かりが消され、管制室から差し込む光でうっすらとしか見えなかった。
 だが、その中にモビルスーツの姿があった。それは管制室に入った瞬間にミリスの眼に飛び込んできた。
 明かりが無いせいで、ほのかに浮かび上がるシルエットしか見えない。だが、その特徴的な形はミリスの心を捉えた。
「見せたいのってあれか?」
 クリエが言った。イルジニフは満足そうに頷いた。コンソール・パネルに近寄ってスイッチを入れる。
 管制室と奥の格納庫の全ての明かりが灯った。眩しいライトに照らされた一機のモビルスーツ。それを見てミリスは叫んだ。
「ガンダムだわ! 本物の!」
「これがフェイクの元になった、オリジナルのガンダム、ダス・ゼルプストよ」
 イルジニフは言った。
 同じトリコロール・カラーで塗装された本体は、フェイクに比べて一回り小さい。腹や手足も細く、ややもすると華奢な印象を与える。背中のランドセルに当たる部分も張り出しは小さい。精悍な印象は全く無かった。シルエットは完全に人間を模していた。外観からは武器や特殊な装備は発見出来なかった。悪い言い方をすれば、小さく纏まってしまっている、というところだ。
「何だかミリスに似ている」
 クリエが呟いた。確かにフェイクと比べると、いや、他のモビルスーツと比べても、どこか女性的、少女のような印象を受けた。
「これを見て本物だというなら、間違いないわね」
「どういうこと? このガンダムとミリスと何か関係があるの?」
 メスリーが聞いた。
「ニュータイプって知ってる?」
 イルジニフの質問に答えたのはクリエだった。
「ああ、パイロット特性を持った宇宙の適応者じゃないの。宇宙時代の初期から存在が言われて研究も長いことされてきたけど、結局、最終的にニュータイプは存在しないって結論になったんだろ。兆候を示す例は幾つかあるが、特にそれらをニュータイプと結論付ける理由はない、とかなんとか、そういうの読んだことがある」
「そう、もともとニュータイプ論とは、さらに進化した人間を指す観念的なものよ。それも個人の能力とかそういうのでは無くて、宇宙時代の人類はかくあるべきといった意味のね。でも、実際、ニュータイプとおぼしき、なんていう例が報告されだしてから、研究は盛んに行なわれたわ。一部では人工的にニュータイプを作り出そうとする研究も行なわれた。悲劇的な結果を伴ってね。そして、コロニー軍との戦争が激しくなる最中、やはりニュータイプを作り出そうとする計画があったの。それも今までの研究とは違う、ナノマシンによって遺伝情報そのものを書き換えるという方法でね。これが今までと違うのは、精神や肉体に過度な負担を掛けることなく、その効果を死ぬまで持続させられること。そして、ニュータイプ同士を結ばせることで、その子供もニュータイプとなる。それで無くてもニュータイプが誕生する可能性は高くなるわ。もっとも当時の研究は、単にモビルスーツの操縦技術を特化させるだけのようだったけど。当時の連邦軍では極秘に三つの計画が平行に進んでいた。ニュータイプを作ること、そのニュータイプから、さらにカノン・フォルムを作り出す。そして、ニュータイプ専用のモビルスーツの開発。ミリスが住んでいたところは元々ニュータイプ研究所だった。当時の被験者名簿を見たら、ヤワという名前を見つけたわ。ミリスの両親かその前の代の人間ね。書き換えられた遺伝情報は子供、孫へと受け継がれるわ」
「それがミリス?」
 三人の視線がミリスに集まる。
 それでガンダムのことを知っていたのか。それはミリス本人ではない、ニュータイプ実験によって遺伝子の中に埋め込まれた記憶なのだ。フェイクを見て本物じゃないと思ったのも、初めて乗り込んだモビルスーツの操縦方法を体が知っていたのも、そういう訳なのだ。
「このガンダム、ダス・ゼルプストは、言ってみれば、ミリス、あなたのためのモビルスーツ、あなただけのガンダムよ。ダス・ゼルプストはニュータイプ専用だから他に乗れる人間はいない。ダス・ゼルプストの能力を引き出せるのはあなただけ。メスリーに頼んで研究所に行ってもらったのもあなたのような人間を見つけるためよ。そこにまだニュータイプに関する情報が、ひょっとするとニュータイプそのものが存在してるんじゃないか、と期待してね」
「博士、さっき言ったカノン・フォルムって何なんですか?」
「それは、今はちょっと」
 イルジニフはばつの悪そうな顔をして口をつぐんだ。
「まだ何か隠しているわね」
 クリエが眉をつり上げた。
「ダス・ゼルプストの制御システムの一部よ。ちょっと特殊もなのだからね」
 両の掌を広げて振って見せた。そのイルジニフの態度にミリスは釈然としないものを感じた。
「検査結果を見たけど、ミリスは全く普通の人間だわ。でも、ある検査にだけ特徴的な反応が現れている。脳にモビルスーツ関係のパターンを送ると体が自然と反応しているわ。初代の被験者が受けた実験はタンパク質型の遺伝子書き換えナノマシンを使用することだけど、世代を重ねても、それがしっかりとミリスに受け継がれているのね」
「でも、それじゃ、ミリスがガンダムを動かすために遺伝子を書き換えられた戦闘用の人工ニュータイプってことなる」
 クリエのこの言葉は、ミリスの心に重いものを残した。
「戦争で人の心が疲弊すると狂気が生まれるものよ。実際、平和な時代にニュータイプの兆候を見せた人間はほとんどいないわ」
 イルジニフはそう言って首を振った。
「狭義の意味ではクリエの言ったことは正しいわ。本当はもっと連鎖的に色々な実験や計画がなされ、それは今も続いている。ニュータイプ用として造られたのがガンダムで、それに対応した能力を与えられたのがミリスということね」
 ニュータイプ。何だかよく解らないが、自分はそういうものらしい。だからガンダムを使うことが出来る。
 真偽はともかく、その内容自体は驚きであり、また予てからの疑問に対する答えとして納得出来なくもない。
 だが、それを知ったことで心の内に去来するものは無かった。たまたま自分はガンダムを操縦することが出来て、さらにガンダムと出会ってしまっただけのことである。言ってみれば、それだけのことなのだ。ミリスが理解したのは、そういうことだった。それ自体を大した事のようには思えなかった。
 だが、アリアとエディのために何かしてやりたい。そのためには、このガンダムは役に立ってくれそうだった。自分が出来ることは悲しいが他に何も無いのだ。
「これがあればジェニューインを倒せるのね。もう動かせるの?」
 ミリスが聞いた。
「九割がたは大丈夫。後は微調整だけよ。ただ、ザクを倒せるかどうかはちょっと判らないわ」
「どうして?」
 イルジニフは頭を掻いた。
「武器がないのよ。それとジェネレータね。ダス・ゼルプストは四基の最新型のMPPAエンジンが搭載されている。モビルスーツ、モビルアーマーでこれが搭載されたのは後にも先にもダス・ゼルプストだけよ。でも、今は三基が使用不能となっているの。実際の出力だって、三十%くらいしか出せない。それでも、フェイクと比べれば格段の差があるけど。相手がザクじゃ不安だわ」
「武器がないってのは?」
 クリエが声をあげた。
「内蔵武器がないってこと? フェイクの武器だって他のモビルスーツの武器だってあるだろう?」
「フェイクとは規格が違うの。頭のバルカン砲だって取り払っているし、ダス・ゼルプストは完全な規格外モビルスーツだから、ショット・ベースもついてない。下手に何か装備すると、超音速で飛行した時にショック・ウェイブやバフェッティングで機体そのものが傷つくわ。だいたい、ヴァルハラはモビルスーツ本体の研究施設で、武器なんてそんなに揃ってるわけじゃないわ。そんなこと言ったところで、あなた達は行っちゃうんだろうけど」
 イルジニフは腕を組んだまま、大きく溜め息を吐いた。
「でも、全くないわけじゃないのよ。ダス・ゼルプストの最大の武装は、胸にあるハイパー・メガビーム・ランチャー、通称ヴァイパー・ブレードという強力な武器があることはあるんだけど。ただ、MPPAエンジンが使えないせいでヴァイパー・ブレードの出力は極端に落ちてる。それを補うためにサテライト・ユニットも着けてはあるけどね」
 イルジニフが指差したところを見た。確かにダス・ゼルプストのリア・アーマーには大きな丸いクッションのようなものがある。
「ダス・ゼルプスト本来の機能は制限されているけど、今のままでもビーム・スキンを展開してマッハ二オーバーで飛行出来るし、大きさは限られるけど、腕のビーム・シールドだって使える。一応、ランドセルにビーム・サーベルを二本と、リア・アーマーにエネルギー・パック式の手持ち型ビームガンを装備してある。これは弾数は一発しかないけど、パックは全部で三つあるので、三度は撃てるわ」
「そんなものなのか? 全然心許ないじゃないか?」
「本当はフル可動させてあげたいんだけど、今はそういう時期じゃないから」
「じゃあ、どういう時期なの? 今、動かさないで、いつなら都合がいいの?」
 緩慢で否定的な会話に苛立ったミリスが大きな声を出した。
 感情的なミリスを目の前にして三人は驚いた。イルジニフは、ただ、ごめんなさい、とだけ言った。
 ヘスが管制室に入ってきた。何か暗い顔をしているように見えた。
「一応、準備は整いました」
 そう、といってイルジニフは頷いた。
「核は取り出せたのね。予定どおり、私のを使ってちょうだい。ミリスはまだらしいから」
 ヘスは答えず黙っていた。そしてゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、わたしは反対です。いくら何でも倫理的に問題です」
「今更なにを言っているの? 連邦軍は実際にモビルスーツに乗せ始めたのよ。それにミリスはダス・ゼルプストを動かしたがっている。必要なことじゃない」
 ミリスはイルジニフを見た。自分よりもイルジニフ自身が固執している。その入れ込みようは、単なる科学者気質というものでは理解出来ない。
「メタ・ゼリオンの注入はコントロールしている。だからMPPAエンジンも制限されてるんじゃない」
 ヘスは視線を合わせずに言った。
「自己防衛モードを発動したら? ダス・ゼルプストはカノン・フォルムを成長させるために暴走しかねません」
 イルジニフはミリスに振り向いた。笑みを浮かべてミリスの肩に手を置いた。
「大丈夫。ミリスがうまくやってくれる。この子が使うなら悪いことにはならないわ。どのみちパレ・ロワイヤルのセントラル・コアとして使うためには成長したカノン・フォルムは必要じゃない? でも、今しばらくはプロテクトが解けることはないはずよ」
「地上に降ろせば、回収出来なくなります。破壊されでもしたら」
 しかしイルジニフは自信を持って、ミリスに預ければ大丈夫、と繰り返した。
 ヘスはようやく、判りました、と言って管制室から出ていった。
 その後ろ姿を見送ったあと、イルジニフはミリスに向き直って、その肩をしっかりと掴んだ。
「さあ、これでダス・ゼルプストは使えるようになるわ。ねぇ、もうすぐダス・ゼルプストは私とあなたの娘になるのよ」
 イルジニフの口元がつり上がる。その中にミリスは醜悪なものを感じた。
 何を考えているの、この人は? しかし、ミリスは使ってみせると心に決めた。イルジニフが何を考えていようとも。
 そのやりとりの間、メスリーとクリエは何も言わなかった。

 三日が過ぎた。その間、メスリーとクリエは、自分の乗るガンダムの整備をしながら、手元に入る地上の情報を検討していた。
 ミリスは過ぎて行く時間に苛立ちながら、ほとんど何もすることがなく過ごした。
 ダス・ゼルプストの整備は進んでいる。時々はミリス自身もそれに加わった。ダス・ゼルプストのコクピットは脱出カプセルである、G−ボール内に設置されている。完璧なアストライド・シートだった。調整も万全だった。G−ボールは複座だったが、後方に位置するシートには、カノン・フォルム用の機器が設置されていた。そのシートはスライドしてダス・ゼルプストの本体に収納されるようになっている。カノン・フォルムが何なのかは、今だ誰も口を継ぐんで話さなかった。
「DNAコンピュータの発展型の生体コントロール・システムよ。この前、私が血を採ったでしょう? あなたの体細胞を培養したもので、あなたの思考と連動して負荷を軽減できるの。それに、ダス・ゼルプスト本体の処理能力や反応速度も飛躍的に上昇するわ。これはサイコ・フレームやバイオ・センサーの増幅器としての役割もあるの」
 イルジニフはそんな説明をした。本当のところはどうか判らないが、信じることにした。性能が少しでも上がるなら、他のことはもうどうでもいい。
「カノン・フォルムを完全に成長させるとMPPAエンジンを全て制御出来るようになるんだけど、ちょっと不安定なので、成長を途中で止めてあるの。MPPAエンジンが一基しか使えないのはそのためよ。でも影響が出るのは、ヴァイパー・ブレードとビーム・シールドだけで他は全く問題ないわ」
 メイン・ジェネレータであるMPPAエンジンが四分の一になっても、本当に問題がないのか?
 だが、これにも何も言わないことにした。たとえダス・ゼルプストが使えなくても、その時はフェイクに乗るだけだ。それだけの覚悟があった。
 四日目には完全な待機状態になった。ダス・ゼルプストの調子はいい。シミュレーションも安定した数値を出していた。何度かコクピットに入ってみて、いける、という実感をもった。
 地上の様子に変化は無かった。連邦軍にしろ、ラスティアースにしろ、ブレナンやネリスが組織を無視して独自に動いていたとしても、何らかのリアクションはあるはずだ。
 ヴァルハラでは軍内部へのネットワークにもアクセス出来る。少しでも動きがあれば、その情報が入るはずだった。
 恐れていたヴァルハラ本体への攻撃も無かった。ブレナンの言葉はハッタリだったのか? いや、そうとも思えなかった。
 ダス・ゼルプストは完全に重力下仕様となっている。宇宙戦闘に備え、フェイク五機を用意した。
 地上に降ろした十機のフェイクは失われたが、それでもヴァルハラには十二機分のフェイクがあった。ジェニューインには役不足であったが、連邦軍のモビルスーツに対抗するのは充分だ。
 五日目になると、ミリスはガンダムに乗りたくて仕方がなかった。勿論、毎日整備や調整の度にコクピットに座っていたが、シミュレータ以外で本格的に可動させたことはほとんど無かった。
 これは遺伝子の中に刷り込まれたものなのだろう、ジェニューインに対する怒りは収まってはいなかったが、それ以上にガンダムへの奇妙な感情が、ミリスの心を支配しようとしていた。
 それはまるで近親者に対する愛情に似ているだろうか。いや、もっと近しい自分自身の体、手足の延長線上にあるものという感覚が近いと言えるかもしれない。
 その感情はミリスを悩ませた。こんなに身近にガンダムを感じるのは危険なことだと思う。ガンダムの側にいると、自分の体の奥底から、忘れかけていた記憶が呼び覚まされるような気がする。それとともに、今まで生きてきた生活そのものが否定されてゆく。いや、本当にそうだろうか。今までの生活にどんな意味があったのか。生きるためだけに繰り返してきた日常。それにどれほどの価値があっただろうか。それよりもむしろ、ガンダムと一緒にいるほうが本当の自分なのではないか。自分の中にある能力を考えると、そのほうが自然なのではないか。そう思うと頭の中が混乱してしまう。
 アリア、エディ、早く終わらせたい。ミリスは自分の心に焦りが生じていることに気付いた。
 イルジニフは、そんなミリスを連れてヴァルハラを回った。単に退屈しのぎだったが、慣れてきた無重力空間の中を自由に動き回れるのは、おおいに慰めになった。
 ヴァルハラの奥で見慣れないマシンを発見した。まだ大きなパーツが三つほど接続されてなく、基部はコードや接続用ジャックがむき出しになっていた。一見するとモビルスーツのようだが、その形状は人型には程遠かった。足と思われる部分は大きく外側にずれて後方に突き出している。巨大なランドセルは後方に向かって集中していた。部分部分だけをみるとモビルスーツだが、それが一つになって形作られているものは、全く別のものだ。敢えて言うなら宇宙用の戦闘機と言ったところだろうか。だが、その姿はあまり洗練されているとは言い難い。
「あれは何?」
 イルジニフが答えた。
「あれもガンダムよ。ダス・マンというの。パーツを分割した状態で見つかったので、まだ復元はしていないけど。ダス・ゼルプストの姉妹機といったところね。もっとも性能は数段落ちるわ。MPPAエンジンも搭載してないしね。正規の部品がほとんど使えなかったので、色々なところからパーツを寄せ集めて作られたの。足りない機動性を補うために、可変型となっている」
「使えないの?」
「使おうと思って急いで直してたんだけど、まだ二ヶ月かそこらはかかりそうね」
 ダス・マンと呼ばれたガンダムは、確かにダス・ゼルプストと同じような感じがする。見た目からフェイクのような、別物という違和感も感じない。
 ただ、可変型、というのは決定的に違う。ダス・ゼルプストのような親近感は感じなかった。ミリスにはダス・ゼルプストさえあれば、他に紛い物は必要無かった。
「博士はどうしてそんなにガンダムに詳しいの? それって単なる資料の受け売りじゃないでしょう?」
 イルジニフは笑って、答えをはぐらかした。言いたくないならそれでもいい。ガンダムを最高の状態で使わせてくれるのなら何でもいい。ミリスはそう思っていた。目的さえ果たせればいいんだ。
 六日目、ようやくその時が来た。
 連邦軍のモビルスーツ部隊の移動を確認したのである。率いているのはブレナン本人だった。
「オーストラリアよ。ニューサウスウェールズの南東。コロニー軍との大戦以前に破棄された連邦軍基地跡」
 通信室に集まったミリス達にイルジニフが説明した。
「ブレナンはもう向かっているわ。基地には核貯蔵施設もあったから大きなものを隠すのには丁度よかったのよ。とくにニューサウスウェールズは休戦の後、直ぐに反地球連邦政府活動が激しくなったところよ。今でも、ラスティアースの勢力圏ね。だから連邦軍の目から逃れられた」
「ようし、モビルアーマーなんか、叩き墜としてやる」
 クリエが拳で自分の掌を打った。
 突然、警報が鳴り始めた。スクリーンにアラートが表示される。
「戦艦だわ。レパント級が二隻、ヴァルハラに接近中」
「ヴァルハラを攻撃するにしては、ちょっと規模が小さいわ。多分、私達の足止めね」
 メスリーは少し考えて言った。
「レパント級はメガ粒子砲を持ってる。モビルスーツも四機搭載出来たはず。近づかれると面倒なことになる。今のうちに地球に行きましょう」
「でも、それじゃ、ヴァルハラはどうなるの?」
 ミリスはイルジニフとメスリーの顔を交互に見た。ヴァルハラには戦闘員はいない。ミリス達がいなくなれば、いくら宙域的に優位でも勝ち目はない。
「私達は自分の目的を果たすべきよ。ブレナン大佐やイレーネ・ネリスに巨大な力を持たせることが危険なのは判るでしょう? 阻止出来るのは私達だけだわ」
「だからと言って、ヴァルハラを見捨てることは出来ない」
 ミリスはアリアとエディのことを思った。ヴァルハラに来て六日間、ミリスには意外に居心地のいい場所だった。イルジニフをはじめ、スタッフ達とも交流を持って、見知った人間も多くなった。
 今、ヴァルハラを離れることは、彼らをアリアやエディと同じにすることだ。あの時の喪失感を二度と感じたくない。
「いえ、メスリーの言うとおりになさい。パイロットがいなくったってフェイクは動かせるし、自動の防衛システムだってある。そうそうあいつらの思い通りにならないわ。だからあなたは地球に行きなさい」
 イルジニフがミリスの肩に手を置いて言った。その眼差しを正面から受けて、イルジニフの覚悟の程を感じた。ミリスは頷いた。
「じゃあ、マニュアル通り、ダス・ゼルプストとフェイク二機で、モビルスーツ・キャリアーで地球へ。そこからフェイクは大気圏突入用カプセルで、ダス・ゼルプストはビーム・スキンを展開して直接降下、いいわね」
 ミリスは頷いた。そして、モビルスーツ・デッキへと走る。
 警報が鳴り始めてから以降、ヴァルハラは緊張と喧騒に包まれていた。スタッフは全員忙しく動き回り、自分の仕事をこなしている。ミリスがダス・ゼルプストに辿り着いた時には全ての準備は整っていた。
 ミリスはダス・ゼルプストに乗り込んだ。イグニッションをオンにする。作動音がシートを通してミリスの体を静かに揺さぶった。
 整備や調整ではない、シミュレーションでもない、ここからは実戦だ。ミリスの心臓は自然と高鳴っていった。
 ダス・ゼルプストはマニピュレータによって、自動で運ばれて行く。ダス・ゼルプストの前にはメスリーとクリエが乗った、シュレッド・ライナー装備のガンダム・フェイクの姿があった。
 そのさらに前に、モビルスーツ・キャリアーがある。
 モビルスーツ・キャリアーは垂直尾翼のない、三角形をした戦闘機のようだった。胴体中央に分離可能な円筒形のカプセルが三つ、直列で繋がって付いており、それぞれモビルスーツを格納出来る。
 ミリス達は順にそのカプセルの中に入れられた。ドーム・モニターにキャリアーとカプセルの情報が表示される。ダス・ゼルプストのコクピットからでも操作は可能だったが、今は全ての指揮をメスリーに委ねていたから、ミリスのすることは無かった。
「出すわよ」
 メスリーの合図とともに、機体が揺れて、ゆっくりと滑り出してゆく。
 キャリアーはヴァルハラの射出用デッキを抜けて、外へと飛び出した。機体を左右に振って破片を避けながら、コロニーを抜ける。そしてバーニアを使って方向を調整すると、その前方には地球の姿があった。
 キャリアーが大きく揺れる。高エネルギーがかすめて飛んだ。
 メガ粒子砲だ。ダス・ゼルプストのレンジには、敵の戦艦はまだ入っていなかった。だが、こちらの動きは掴んでいるようだ。確実にミリス達を狙っていた。
 この距離ならば直撃される心配はないだろうが、キャリアーの速度はそんなに早くはない。宇宙用のモビルスーツならば追撃される可能性がある。それにミリス達が敵を振り切っても、彼らは次はヴァルハラへと進撃するだろう。そうなれば、ヴァルハラは破壊されてしまう。
 ミリスはキャリアーから出て、敵と戦うべきか迷った。キャリアーは徐々に加速を始めている。迷っている時間は無い。
 そのとき、また大きく機体が揺れた。敵の攻撃ではない。
 モニターに赤く警告が表示された。クリエのフェイクが、キャリアーから離れていた。
「クリエ、どうしたの?」
 メスリーが叫ぶ。
「このままじゃ、やつらに追いつかれてしまう。あたしが食い止めるからメスリーとミリスは地球に向かって!」
「囮になるっていうの?」
「まさか。敵は叩く。ヴァルハラを攻撃させないためにもね。時間がない。二人は地球へ」
 クリエの気持ちは理解出来た。同じ思いだろうメスリーは、ただ、頼む、とだけ言ってキャリアーの加速を続けた。クリエの機体の反応がどんどん遠退いて行く。メガ粒子砲の攻撃は無くなった。
「死なないで、クリエ」
 ミリスは祈った。
 キャリアーは加速を続け、地球への周回軌道へと突入した。離脱の用意をする。
 メスリーのフェイクはカプセルで大気圏突入を行なうが、ダス・ゼルプストはそのまま突入することになる。
 ビーム・スキンは本来、大気圏内を飛行する際、発生する衝撃波から機体を守るためのものだ。過去の実績やシミュレータ等から問題がないことは解っているものの、ミリス自身が大気圏突入、さらにダス・ゼルプストを実際に操縦すること自体が始めてのため、大きな不安があった。
 ミリスはカプセルを排除して、宇宙空間へと出た。目の前には視界に入りきらない程大きく映る地球と、メスリーの乗ったカプセルの姿があった。キャリアーはダス・ゼルプストの足元数百メートルの向こうに破棄されていた。
 メスリーのカプセルは一直線に地球へと降下してゆく。次第に真っ赤な摩擦の熱が尾を引き始めた。
 よし、とミリスはダス・ゼルプストを加速し始めた。機体は真っ逆さまに地球へと降下し始める。
 ミリスは体を反らせて顔を地球へと向け、ビーム・スキンを作動させた。ピンと伸ばした指先や爪先を、全身から発生したメガ粒子の光が包んで行く。
 ウェイブ・ライダーと呼ばれる形態である。
 ダス・ゼルプストはそのまま、大気の層に突き入った。モニターが真っ赤に燃え、機体が激しく振動する。
 冷却剤によって機体表面の温度は抑えられてはいるが、パネルに表示される数字は物凄い勢いで上昇していた。コクピット内の温度は一定のはずだが、スクリーンに映る、炎とビームが激しく交わる様子を見ていると、自然と汗が吹き出した。
 体が重い。ミリスは徐々に自分の体重を感じるようになった。
 落ちているのに。無重力のはずなのに。
 ミリスは、これが地球主義者達の拠り所となっている魂の井戸であるとにわかに実感した。
 振動は長く続いた。もう、いい加減に終わって、と心の中で何度も叫んだ。
 次第に機体の振動が収まってくる。真っ赤に染まっていたスクリーンは空の青へと変わった。
 突入は成功だ。ミリスは機体を水平へと立て直す。
 高度は五万メートルになっていた。
 辺りを見回すと、遥か下方にメスリーのカプセルの姿が見えた。ほんの点のようなものがモニターに映っている。
 ミリスはダス・ゼルプストを降下させた。
 カプセルは対流圏界面を抜けて、高度七千メートルでパラシュートを開いた。
 ミリスは落下速度が減速し始めたカプセルの脇を抜けて、地上へと降下した。
 目の前には砂漠が広がっている。オーストラリア大陸の中央西側にあるギブスン砂漠だ。
 ビーム・スキンを解除したダス・ゼルプストは、脚を大地へと向けてそのまま着地した。機体が大きく沈みこんだ。砂地で足元は不安定だった。そのままメスリーの降下を待った。
 ブレナンの連邦軍部隊は山脈を隔てた東側に位置している。大気圏突入はブレナンやラスティアースにも知られたことだろう。完全な奇襲は無理だ。逆に襲撃されないとも限らない。早くここから移動しなければならない。
 メスリーは地上から二百メートルのところでカプセルを破棄し、フェイクを降下させた。逆噴射して落下速度を殺し、軟着陸する。フェイクは片膝を付いて、その場に座り込んだ。
 ミリスはダス・ゼルプストをフェイクに向かって歩かせる。距離は五百メートル近く離れていた。
 側まで来ると、同じように片膝をついて、ダス・ゼルプストをしゃがませた。
 空は雲一つ無く、眩しい日差しが地面を熱して、砂漠からは陽炎が立ちのぼっていた。時々強く吹く風が、砂をあちこちで砂を巻き上げた。
「ミリス、聞こえる?」
 メスリーからの通信が入る。ミリスは返事をした。
「ブレナン大佐はここから千四百キロの地点で部隊を展開させているわ。盆地になっているところよ。昔の爆撃のクレーターみたい。私達が地球に降下したことは、連邦軍にはキャッチされているはず。ブレナン大佐にも連絡がいくわね。とにかく、直ぐに向かいましょう」
 ミリスとメスリーはガンダムを立ち上がらせた。
 ガンダム・フェイク本体に飛行能力は無かったが、装備されたシュレッド・ライナーによって、滑空能力が付加されている。
 レーダーに引っかからないよう、高度を抑えて飛ばなければならない。
 メスリーは背部のブースターを後方へと折り曲げ、腰の突起を前方へと向けた。ブースターが翼を広げる。
「いくわよ」
 フェイクは飛び上がった。空中でブースターのノズルから炎が吹き出す。フェイクは地上数十メートル上空を飛んだ。
 ミリスもダス・ゼルプストをジャンプさせる。そのまま、ウェイブ・ライダー形態へとなった。ダス・ゼルプストは大気圏内を音速の二倍以上で飛行することが出来るが、メスリーに合わせて速度は抑えなければならない。
 そのためビーム・スキンは使わず、そのままスラスターを噴かして飛行する。
 二機のガンダムは並行にまっすぐ飛んだ。
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