第五章 娘


 リューンのヴァンガードを横に寝かせて、全員でメンテナンスを行った。モハマドの機体は幾つかのビーム孔があったが、修理は簡単に終わった。見た目は醜いものの、可動そのものには問題は無かった。
 ハーベイは何処に居たのか、何事も無かったような平然とした顔で現れた。それにはミリスも少々ムッとしたが、気持ちが萎えてしまっていて、何も言わなかった。
 ミリスは安堵感の反動からすっかり放心してしまっていた。本当は動くのも億劫だったが、それを表に出さないよう気力を振り絞って動いた。
 ヴァンガードのコクピットにはリューンが座っていた。元々は宇宙用を基本に開発された機体であり、地球進攻用に簡易換装で宇宙、地上に対応出来る汎用型だ。その分、環境への対応は早いものの、部分的に脆いところがある。
「どうだ?」
 モハマドが聞いた。リューンはモニターを睨みながら、機体のチェックを行っていた。彼女の指示でモハマドとハーベイが修理をする。ミリスは何とかそれの手伝いをする程度だった。
 リューンは首を振った。
「ハイドロ・プレートが完全にやられている。リキッドが全部流れてしまってるわ。後は、焼けた基盤や欠けたカムを変えれば問題はなさそうだけど」
 いや、と今度はモハマドが否定した。
「ハイ・プレ破損はある意味、最大のトラブルだ。機体を捨てていくわけにはいかないが、もう使わないほうがいい」
「地上で使う分には大丈夫よ」
 だが、モハマドはがんとしてリューンに降りろと言った。
「俺達はスペースノイドだ!」
 ミリスは二人の会話の意味がよく判らなかったが、それを察したようにハーベイが説明してくれた。
「ハイドロ・プレートは宇宙放射線から身体を守る為のものです。ノーマル・スーツのフリュードもそうですし、MS、航宙艦を問わず、宇宙で動くものには例外なく装備されてます。もちろん、あなたのダス・ゼルプストにもありますよ。ハイドローリックと言っても、実際には油系ですけどね。我々スペースノイドは、幾らコロニーの環境を地球に合わせていても、やはり地球とは微妙に違います。コロニーで完全に遮断されている放射線を地上で浴びれば、抵抗力で劣る我々は、アースノイドより病気にかかる可能性は高くなります。予防接種はしてるんですけどね」
 スペースノイドか。ヴァルハラでは意識したことは無かったが、宇宙で長い期間過ごすということは、地上にいるのとはまるで違う。元々宇宙は、人類を何の装備も無しに受け入れてくれる環境ではない。それを人類が無理にその中に生活の場を広げていったのだ。その為に被る被害も甚大だ。
 結局、リューンはヴァンガードを使うことを押し通したが、シャトルに積み込む時点で、完全に立ち下げを行うことを約束させられた。そういったモハマドの見掛けによらない堅実さは、ミリスを驚かせた。
「盾は駄目、ビーム・シールドは、もう! 何でこんなカビの生えたもの付けてるのよ!」
 リューンが怒ったのはビーム・ローターのことだった。ガンダムの一撃を防いだ時、ビーム・ローターのお蔭でリューンは助かった。だが、それは誤作動による偶然だった。
「それでも最新の同軸反転回転型だ。再装備させたのは有効だと判断したのだろう。使ってみせるしかないな」
 リューンはフンと鼻を鳴らした。
「これだから、安物のビーム何とかを使うのは嫌なのよ!」
 それを聞いてハーベイはくすくすと笑った。人が感情的になっているのを見るのは気持ちのいいものではない。ミリスはリューンにもハーベイにも不快感を覚えた。むしろ、冷静に立ち回るモハマドがより頼もしく見えた。
 そうそう、と言ってハーベイはハンドヘルドPCのモニターを見せた。ズラズラと表示されるデータは、ミリスには何が何だか判らなかった。
「ダス・ゼルプストを調べて色々と判りましたよ。いや、流石に凄いですね。イルジニフ博士からスペックは聞いていたのですが、それ以上です。リミッターなんか外したりすれば、どんな数値がでることか。それよりも、ほら」
 ハーベイはデータの一部を指差した。やはり何か判らない。ただハーベイの興奮だけは感じられた。
「もっと凄いのが自律型の自己防御プログラムです。あのミノフスキー・ドライブの光の翼も全部プログラムで処理してるんですよ。ハンマ・ヘッド・ストール、スナップ・ロール、左ひねり込みもしました。高度かつ正確、いや、とんでもないモビルスーツですね」
 そんなことは言われなくても判っている。整備が終盤になってきて、もうミリスの気力も限界になってきていた。ハーベイのお喋りも殆ど聞き流していた。時々眠気で意識を失うほどだった。
「君はもう休め。リューンを側にやらせる。コロニー軍はともかく、連邦がどう動くか判らんから四時間、四時間でここを離れる。いいな」
 いいも悪いもない。ミリスは半ば無意識にそれに頷いた。背後にリューンの不満の声が聞こえたが、それを聞き取ることも出来ず、ホバートラックの幌付きの荷台に乗り込み、畳まれたテントセットの上に体を預けた。その瞬間にはもうミリスは眠りに落ちていた。

 ミリスの見た夢は最悪だったと言っていい。ミリスの前に姿を現わしたのはあのカノン・フォルムだった。まるで精気の無い顔でミリスをずっと見ていた。ミリスは目を背けて逃げ出す。だが、走っても走ってもその先にカノン・フォルムが待っていた。どこまで走り続けたのか、いつかミリスは自分が身体に何も纏っていないことに気付いた。ふと、両手を見る。明らかに普段と違っていた。それは作り物だった。カノン・フォルム。自分がカノン・フォルムになっている。その前に新しい人影が現れた。それは長い髪を揺らし、近付いてくる。その姿をハッキリと確認して、ミリスは驚いた。それはミリスだった。目の前に自分を見て、頭の中が混乱する。それはミリスではあったが、同時にカノン・フォルムであった。何故? 目の前の自分は、訴えるような瞳で両腕を伸ばしてきた。その腕がミリスの身体に絡まる。その口元が動いてある言葉を発した。その瞬間、ミリスは悲鳴を挙げた。
「またなの?」
 飛び起きたミリスに向かってリューンが聞いた。汗をびっしょりとかいている。頭もくらくらするし、吐き気もした。
 夢の内容ははっきりと覚えていた。だが、最後に現れたもうひとりの自分が発した言葉だけは何故か覚えていなかった。その直前までは鮮明だった。何故、その言葉だけ忘れた? それは認めたくない否定したい言葉。だが、逃れられないもの、いや、血肉を分け与えたものだけが発することが許される言葉だ。それだけは感じられる。
「いい夢を見られないのは、心が不安な証拠よ。早くヴァルハラへ戻りましょう。ここも直ぐに離れたほうがいいわ」
 リューンは言った。心が不安か。何が自分をそんなに不安にさせているのか、ミリスは判る気がするし、かといってそれが何と言葉には出来ない。
 リューンは一人で出ていった。ミリスは体を動かそうとして節々に痛みを覚えた。あれから数時間眠ったようだが、眠気以外はほとんど回復していない。だが、動ける気力だけでも取り戻したので、それで充分だと思った。
 ミリスは何とか荷台から這い出した。もう陽はだいぶ傾いていた。赤く焼けた光が眩しい。
 出発の用意は整っていた。モハマドとハーベイの二人で用意をしたらしい。その為、ダス・ゼルプストの整備はほとんど行われていなかった。
「正直、色々といじってみたかったですね。まあ、それはおいおい、ということで」
 ハーベイは残念がった。だが、ミリスはこの男にモビルスーツを触られなかったことを幸いに思った。やはり、どこか慣れない男だった。
「じゃあ、シャトルまで戻って直ぐにヴァルハラへ。もう随分と時間が経ったわ。ここから早く離れましょう」
 リューンが言った。だが、ミリスはこのままではいけない、と思っていた。
「どうしたの?」
 リューンが声をかける。ミリスは首を振った。
「このままにしておいていいの?」
「何が?」
「カノン・フォルムよ。このままにしておいていいのかな?」
 リューンは首を傾げた。様子を見にモハマドも姿を見せた。
「どうした?」
「いや、この子が」
 ミリスはやはり放っておいてはいけないと思った。
「カノン・フォルムなんてものを使わせたらいけない。あんなもの無くさなきゃ」
 リューンとモハマドは顔を見合わせた。
「昨日のやつのことを言っているの? 無くすったってあたしたちにどうこう出来る問題じゃないじゃないの。もうモビルスーツに乗せてたってことは随分と計画は進んでいるはずだわ。それに、幾ら極秘扱いでも関連施設は一カ所や二カ所じゃないはずよ。一つずつ潰していったらどれだけかかるか。だいたいそれが何処にあるかも判ってないじゃない」
 ハーベイなら、とミリスは考えた。あの男なら色々と情報を持っているはずだ。
 ミリスはホバートラックに向かった。案の定ハーベイはその運転席でハンドヘルドPCとにらみ合っていた。
「おや、どうかしましたか? 早く出発しないと」
「カノン・フォルムが何処で作られているか、教えて」
 ハーベイはきょとんとミリスを見下ろした。
「聞いてどうするんです?」
「決まっているでしょ! カノン・フォルムなんて作らせたらいけないわ!」
 ハーベイは頭を掻いた。
「それは我々のすることではないです。だいたい、もうすぐ関係なくなるじゃないですか」
 皆、同じ事を言う。だが、ミリスは引かなかった。
「お願い、何処で作られているかだけ教えて。後は私一人でやるから!」
 冗談でしょう、とハーベイが顔をしかめた。リューンとモハマドもやってきて、ミリスを説得しようとする。
「止めなよ、わざわざ死ぬ危険を犯してまでやることじゃないって」
「そうだ、君には別にやることがある。関係のないことに首を突っ込んでいる場合じゃない」
 それに、とハーベイが身を乗り出して言った。
「確かにカノン・フォルムは冒涜的な人造物です。クローン人間をさらにいじり回して、人とは言えないモノ、言わば人型の人工生命体を作る。それも一つは兵士、もう一つは性奴隷。私もそれは許されざるものだと思います。でも、あなたのダス・ゼルプストにも同じものが入っていて、そしてあなたと深く繋がっている。あなたはそれを否定するんですか? カノン・フォルムを殺すことはある意味、人間を虐殺することと同じです。その手始めに、あなたはダス・ゼルプストのカノン・フォルムを殺すことが出来ますか? あなたの手で」
 ミリスは衝撃を受けた。考えてもないことだった。そうだ。ダス・ゼルプストには私のカノン・フォルムが入っている。形は違うといっても、根本的には同じものだ。それを自分の手で葬る。そんなことが出来るのか? こんなに自分の胸の奥底で心を揺さぶっているものを。愛憎の入り交じった不可解で原初的な感情を呼び覚ますものを。自らの血を分けた自分の半身を。
 出来るわけがない。母親が、自分の娘を手にかけることなど出来ようはずが無い。
 ミリスはようやくはっきりと知った。娘だ。この未知の感情は、母親が子供に感じる母性だ。いや、もうとっくに知っていた。多分、ずっと前から。
 それを認めようとしなかったのは、単にミリスがまだ子供だからか、それともそれが人工的に生み出されたものだからか。
 いずれにせよ、それをはっきりと意識してしまった今となっては、もうミリスには為す術は無くなった。
 ミリスはその場にがっくりと両膝をついた。
「ちょっと刺激が強すぎましたか? ですが、事実は事実として受け止めて頂かなければなりません。あなたとダス・ゼルプスト内のカノン・フォルムとの感応は、確かにニュータイプ的だと言えるかもしれませんが、違うとも言えます。それは心の奥底で繋がり合う母性と慕情、あるいは母と娘の愛情です。あなたにそれを断ち切って、尚且つその命を奪うなど出来ないと思いますね」
 ハーベイは優しく声をかけた。だが、その言葉はミリスに追い打ちをかけるように、ミリスを忸怩たる最果てへと突き落とした。
「もう、いいよ。あたしたちがやることじゃない。もちろん、ミリスにもね。ミリスをそんな気持ちにさせたのも判るけど、ハーベイのいうことももっともよ。解決は地球の人間がすべきもの。それでいいじゃない」
 リューンはミリスの肩に手を置いた。ミリスはその手の上に自分の掌を重ね、立ち上がった。
「判った、そうするわ」
「よし、では、早速出発する。もう随分と時間が過ぎた。遅すぎるぐらいだ。各自、モビルスーツへ」
 モハマドが言った。ミリスは後ろ髪を引かれる思いでダス・ゼルプストに乗り込んだ。
 誰も無言だった。
 ホバートラックの走行に合わせてダス・ゼルプストを走らせる。他の二機のヴァンガードもそれに続いていた。
 夜の帳は直ぐに訪れた。平坦な地は殆ど無い。だが、そこを進むのにはそれほど苦は無かった。
 シャトルはネットをかけて偽装してある。岩山に疎らな木々。隠すには少々不安もあったが、アフリカ大陸の現状を考えるとそれでも充分だった。確かに連邦軍に発見される可能性もあるが、展開している勢力はそれほどではない。数日なら大丈夫だ。そう思っていた。
 しかし、そこに辿り着いてそれが甘かったことを知った。
「何で? どうしてよ!」
 リューンが叫んだ。全員が沈痛の面持ちでそれを見つめる。
 シャトルは破壊されていた。ヴァンガードのライトで照らされた機体は三つに折れ、その表面は大きく波うっている。外板が捲れ上がっているところを見ると、内側から爆破したように見える。
「連邦軍のやつらか? いや、まさかな。もし、やつらがシャトルを見つければ、逆に絶対に壊したりはしないだろうからな」
 確かにそのとおりだ。だが、今考えるべきはそんなことではない。
「どうするの? 帰れないじゃないの!」
「いらつくな。ヴァルハラにレーザー通信を送ろう。向こうにまだシャトルはあったか?」
「シャトルがゴロゴロ余っているわけないでしょ! あるならパレ・ロワイヤルか、ウォー・ホースにもあったわ。でも、連絡がとれるの?」
 モハマドは首を振った。
「判らんな。専用チャンネルだから傍受される心配はないだろうが」
「直ぐに通信を送って。私達はシャトルを調べてみる」
 了解、といってモハマドはヴァンガードのコクピットへと入った。ミリスとリューンは、ライトを片手に破壊されたシャトルの周囲を歩いてみた。中途半端な壊し方だ。単純に飛べなくするため、といった感じだった。その分、無差別な爆破のために内部はどうしようもなく荒れていた。
「使えるものを引っ張り出しておく? 全く、どうしてこんなになっちゃったのよ!」
 リューンはずっと機嫌が悪いままだった。直ぐに帰れると思っていたのだろう。それはミリスも同じだった。このまま次のシャトルが来るのを待つのか? いつかの光景が頭を過った。あの時の、ヴァルハラからのシャトルを待っていた時と同じだ。時間が死ぬ程長く感じられた。アリアを失ったのはその後だった。
 戻ってみると、モハマドの通信は終わっていた。だが、顔はそれほど芳しくない。
「返信を受け取るのは無理だな。確実とはいえんが通信は通じたと思う。朝、夜が明けてからもう一度やってみよう」
 また、待つのか。あの時と同じ経路を辿っている。ミリスはそこはかとない不安を感じていた。
 ミリス達四人は集まってどうするかを話し合った。まだ真夜中というわけではない。モハマドは地図を確認した。
「タンガという街が近くにある。街と言っても、もう何十年も前に破棄されて、今は人間は住んでいない。昔は結構大きな街だったらしい。建物が幾つか残っているはずだ。モビルスーツを隠すことが出来る」
「一晩だけならここで過ごしてもいいんじゃないの?」
 リューンは動きたくないようだったが、それにハーベイが口を挟んだ。
「一晩で終わるとは限りませんよ。今夜は休息を取るためにも街に行きましょう。大丈夫、街はそれなりに形を保っているようです。もっとも、私の持っているデータもかなり古いですけどね」
 ミリスはそれでいいだろうと思う。同じ野宿にしても屋根のあるとないとでは全然違う。それに敵に襲撃された時でも、街を防衛に利用出来る。
 四人は直ぐに合意して、タンガに向かった。
 小一時間余りでその街に着いた。確かにそれは大きな街だった。中心部には五、六階建ての建物がいくつも並んでいる。廃墟となって久しいがその形を今だに保っていた。
 そのビルのひとつにモビルスーツを隠した。八階建てのビルは半壊していて、三機を隠すには充分なほどの大穴が開いていた。
 ミリス達は四階に陣取った。床はしっかりとしていた。暗闇の中で、ガラスが全て砕けた窓から差し込む星明りが、フロアを僅かに浮かび上がらせていた。ガランとしていて、白と薄い青のモザイク状の床に積もった埃だけが、そこに存在しているものだった。
 一階から三階は吹き抜けのホール、四階以上は一フロアが丸々テナント用となっていた。デパートか、それともオフィスビルだったのだろうか。
 街に着いてから、ハーベイは直ぐに姿を消した。用があるから、と一言告げただけだった。ミリス達はそれに気もかけなかった。
 簡単な食事を取った後は、今度はモハマドが出ていった。女性を残すのは心配だが、と前置きしたが、逆に女性の中に自分がいることに気兼ねしているようだった。彼はリューンにはそれなりの信頼を置いている。だからミリスと二人のほうが何かと都合がいいと思っているようだ。
 それにモハマドには別の仕事が待っていた。彼は自分のヴァンガードに乗って郊外に出て行った。ヴァルハラとの交信を行うためである。危険を省みている余裕はない。これはモハマドがかって出たことだった。
 ミリスはリューンとコンロを囲んでいた。今は上に何も乗っていないコンロの火が、差し込む僅かな風に震えていた。携帯燃料は余分がかなりあった。今は灯がわりに使っていた。
 二人は無言のままでいた。空気はそんなに重くはなかった。ただ二人とも言葉を発する機会を得られなかっただけだ。
 ようやくリューンがゆっくりと口を開いた。
「ねえ、ダス・ゼルプストって、昔と何か違ってる? 機能が完全に作動したってことだけど。あなたはあれのパイロットとして遺伝子操作されている。やっぱり、その、感じ方っていうのかな? そういうのって違う?」
 ミリスは考えてみた。ダス・ゼルプストは以前と全く同じだ。違うところがあるとすれば、単純に今までそれ以上は出せなかった数値を出せるようになり、タッチパネルの幾つかが反応するようになり、スロットルが前以上に倒せるようになった。操作感覚でいえばそんなものだ。
 だが、内部から頭の中に流れ込んでくる感情はまるで違っていた。今までは蠢いているといった感じだったが、今ははっきりと意志のようなものを感じる。息づいている、そんな感じだった。だがそれを口で説明するのは難しかった。
「違うと言えば、違う。イルジニフさんに言われた時、私も漠然とガンダムが子供、娘のような気がしていた。でも、今はそれが何なのか、もっと具体的に判るような気がする。ガンダムじゃなく、その中で育っているもの。でも何か説明は出来ない」
「感応してるってこと? あたし、遺伝子操作でも完全な記憶を創ることは出来ないって聞いたわ。それに意志や感情にも作用したり、だいたい、そんなに感じ合うこと自体が変じゃない? それってやっぱりニュータイプってことなのかしら?」
 判らない。ミリスにはそれがどうでもいいような気がした。大事なことはもっと別なところにあるんだ。
「それは、要するに、真のニュータイプになったということですね」
 不意に声がした。ミリスとリューン慌ててその方向を見る。うっすらと人影が見えた。
 その手元から火花が散った。その瞬間、リューンが弾けるように後ろに倒れた。
「カノン・フォルムはあなたのクローンですからね。幾らイルジニフさんの未受精卵を使っているとはいえ、操作された遺伝子は強いんですよ」
 ハーベイ? 確かに声はそうだった。顔はまだ暗闇の向こう側だ。
 リューンを見た。彼女は床にくの字に横たわっていた。肩口を押えて口からうめき声を発していた。その手の下からは大量の血が滲み出していた。
「大丈夫? リューン? ハーベイ! 何をしたの!」
 足音が近付いてくる。コンロの灯を受けて、その姿がうっすらと見えた。右手には小銃を持っていた。
「あなた?」
「リューンは生きてますか? まあ、いいでしょう。別に殺す必要はないと思いますからね。後はこのままどれだけ生きられるか、運がいいことを願っていますよ」
「どういうこと?」
「別に。私はコロニー軍の研究者ですから。必要なものが揃ったからそろそろ帰ろうかと考えているだけです。おっと、動かないでください、ミリス。あなたを撃ってしまうと大変です。私はこんなものの扱いには慣れてませんから、どこに当たるか判りませんよ」
 ハーベイの顔が闇の中に浮かんでいた。口元がつり上がった醜い顔だった。
「あなた、コロニー軍の人間だったの?」
「そうです。私は連邦軍の極秘技術を手に入れるために来ました。コロニー軍では私は異端で満足な研究はさせてもらえませんでしたからね。データ取りも終わったし、あとは色々と持ち替えれば終わりです。後は向こうで好きな事が出来る。レジ・ドラ部隊には私も驚きましたが、まあ、私だってコロニー軍には極秘で動いてますからね」
「データ取り? まさか連邦軍部隊の奇襲に失敗したのは?」
「そう、私が彼らに知らせたのです。モハマドが、相手にカノン・フォルムがいることを教えてくれましたからね。どんなものか知りたかった。もちろんシャトルを壊しておいたのも私です」
「外にモハマドがいるわ。彼が帰ってくれば」
 ハーベイは首を振った。顔は笑みを浮かべたままだった。
「確かに、あの大男を相手にするのは勘弁願いたいものです。まあ、それはありませんけどね」
 ハーベイが左手を見せる。何かが握られていた。その上についているスイッチを押す。
 遠くで地鳴りのような音が聞こえた。爆音だ。
「彼のヴァンガードにも爆弾を仕掛けておきました。コクピットにです。残念ながら、いくら彼でも、まぐれで生きていられるほど小さな規模ではありません」
「い、いったい、どうする、気なの?」
 リューンがようやく言った。激しく息をしながら何とか上半身を起こす。ミリスが側によって手を背中に回した。
「私に必要なのはダス・ゼルプストとミリスだけです。あとはどうでもいい。ただ、ミリスにはまだやってもらわなければならないことがあります」
「何をさせようというの?」
 ミリスは聞いた。この男はまるで狂気に駆られているように見えた。正気とは思えない。だが、あくまで冷静さを装っていることが逆に恐怖を感じさせた。
「服を脱いでください」
「何?」
 ミリスは一瞬、訳がわからなかった。
「あんた、そ、そんな趣味があったの? こんな子供に手を出そうなんてさ、最低だ」
「私もお相手いただくならもっと大人な女性がいいですね。それもリューン、あなたなんかじゃなく、もっと豊満な、ね」
「じゃあ、ど、どうするつもり?」
 ふふん、とハーベイが鼻で笑った。何かを期待するように。それはミリスに悪寒を感じさせた。
「サイド三に戻るまでには少し時間があります。それまでにミリスには妊娠していただきます。まあ、これは賭なんですけどね」
 妊娠? 何を言っているの、この男は? 不気味さにミリスは自分の両肩を抱いた。
「あんた、気でも違ったのか? それとも、やっはりそういう趣味なのか?」
「別に、趣味というわけでは。それに、これはミリスの為でもあるんですよ。コロニー軍にいけば、ミリスは研究材料として扱われます。最初はいいでしょうが、そのうち切り刻まれてホルマリンの中に入ることになるでしょうね。ダス・ゼルプストとその中のカノン・フォルム、そしてカノン・フォルムを生み出す人工子宮さえあれば、あとは必要ないですからね。あなたの体内からナノマシンか、それに類する情報さえ取り出せれば、もう、あなたの命はないでしょう。けど、もし妊娠していれば、その研究内容は違ってきます。少なくともあなたが子供を生むまでは生きていられます」
「ば、ばかな、こと、を」
「そうですか? まあ、何度か性交を行ったところでうまく妊娠するとは限りません。だから賭です。そして生まれてくる子供は、たとえ遺伝子がミリス寄りでも、私の子供であることは違いありません。次はその子が研究対象となります。うまく行けばその子が成長して、コロニー軍内で何か役割を持つかも知れません。そうすれば父親として私の地位は将来に渡って安泰です」
「き、貴様と言う奴は! な、何て破廉恥なこと、を」
「あなたに言われたくはありませんね。恋人に捨てられて、それでもその恋人を追ってコロニー軍を脱走して。今まで積み上げてきたものを捨てて愛に走るのは、聞けば美しいですが、結局は自己満足じゃないですか。それに何人巻き込んだんです? 漂流して全員で死ぬつもりだったんですか? あなたのその愛のために? で、結局、その彼氏とは巡り逢えたんですか?」
「き、きさ、まにそれを言われるこ、とは」
 リューンの出血はかなり酷くなっている。しゃべるのもつらそうだ。
「もういいわ。しゃべらないで」
「そうそう、ミリスさえ言うことを聞いてくれれば、あなたには別に用はありません。さあ、ミリス、早く始めましょう。コロニー軍の回収隊を呼ぶのは時間がかかりますが、だからと言って時間が有り余っているわけではありません。大丈夫、私もそれなりの経験はあります。処女の女性の扱いだって慣れたものですよ。あなたとはしばらく一緒に夫婦のように過ごさなければなりませんからね。優しくしてあげます」
 ミリスは唇を噛みしめた。リューンはもう肩で息をするのもつらそうだった。対抗出来る武器を持ってないし、動くことすら出来ない。
 ハーベイは小銃を突きつけた。
「脱ぎなさい!」
 心臓が跳ねる様に脈打っている。それでいて全身から血の気が引いてしまって感覚がない。ミリスはかつてない程の怒りを感じたが、どうすることも出来ず、まるで痙攣しているように震える手でジャケットを脱ぎ捨てた。
「そうです。全部脱ぐんですよ」
「ミ、リス、や、めなさい」
 二人の声が重なる。だがリューンは苦悶の表情を浮かべ、ハーベイは不気味な笑みのままだ。二人の表情は天地程も違った。
 恥ずかしさと情けなさで胸が掻きむしられた。それを必死に押えながら、シャツ、ミニパンツの順に脱いでゆく。
 ミリスは下着姿になった。
「随分、大人っぽい地味な格好ですね。どうしました? 全部脱ぐんですよ? ひょっとして、まだ、何とかなるかも知れないとか考えているんじゃないですか? リューンも大怪我、モハマドももう生きてません。ヴァルハラの迎えだって直ぐには来ませんよ。だいたい、こんな地球であなたのような少女がひとり暮らしていくためには、どっちにしろ街角に立って、幾らかの金のために見ず知らずの男と寝ることになるのです。それに比べれば遥かにマシでしょう?」
 ミリスはハーベイの声を聞きながら、考えを巡らせていた。だが、羞恥心と怒りがそれをかき乱し、うまく考えられない。悔しさで涙が零れそうになる。だが、それだけはいけないと必死に押えた。
「あなたは、私がお願いしていると勘違いしていませんか? それともあなたを撃たないと言ったので安心しているのですか? でもそうやって強情にしていると、目の前でリューンが死んでしまいますよ」
 ハーベイは銃口をリューンに向けた。そこから火花が迸る。風を切る音を発して弾丸がリューンの左太股へと飛んだ。
「ぎゃひいっ!」
 リューンが悲鳴を挙げた。その瞬間、飛び散った血がミリスの頬に掛かった。生暖かい、錆びの臭いを持った鮮血が、頬を伝った。
「リューン! 何てことを」
「終わればリューンの手当てだって出来ますよ。でも、そうやって時間を引き延ばしていると助かるものも助かりません。リューンが死んだって結果は同じなんです。一番、良い方法を取りませんか?」
 ミリスはブラジャーの肩の部分を持って外側に下ろした。ホックで止めているタイプではない。サイドの部分を掴む。
 このまま、あんなやつの言いなりになってしまうの? 何も出来ないの? どうしたらいいの? このままでは、犯される! 体を、汚されてしまう! どうすれば? どうすればいい?
 ふと、頭の中にガンダムの顔が浮かんだ。そこから何か声が発せられている。駄目よ、今、私に声をかけないで!
 だが、ガンダムからの声はどんどん大きくなってくる。そしてミリスの羞恥心や怒り、悔しさを感じて、声も悲鳴のような悲痛な叫びをあげた。
 ゴメンね。ミリスがブラジャーを取ろうとした、その時。
 突然、床が揺れた。上から崩れた天井の破片がばらばらと落ちる。外からビルに向かって、何かが体当たりをしたようだった。
「何です? 何が起こったんですか?」
 ハーベイが窓に向かって顔を向けた。その瞬間、外から差し込む光を遮って、巨大なものが姿を見せた。エメラルドグリーンの瞳が光を放っている。
「これは、ダス・ゼルプスト? 何故、勝手に動く? モハマドか? まさか、やつにはガンダムは動かせないはずだ!」
 ガンダムはまるで怒りに燃えているような瞳をハーベイに向けていた。少なくともミリスにはそう見えた。
「どうなっている!」
 ハーベイはミリスに向けて小銃を構えた。
「無人で動いているのか? お前、何かしたのか? 無駄なことは止めろ!」
 強い声を出してそう言い放つ。ミリスの頭の中で、怒りが弾けた。
 ガンダムが巨大な腕をフロアの中に突っ込んできた。それは天井を崩しながら、ハーベイの頭上に迫った。
「何だ! くそっ! この!」
 ハーベイはガンダムの腕に向かって、小銃を乱射した。だが、それでは傷一つ付かない。
「一体、何」
 言葉は続かなかった。ガンダムは掌を広げ、そのまま伸ばした腕を床に叩きつけた。ハーベイの体はそれに叩き潰され、周囲に血飛沫と肉片を飛び散らせる。ハーベイは一瞬でただの肉塊になった。
 僅かな時間の内に全てが終わっていた。
 ミリスは声もなくそれを見守っていた。ふと、ガンダムと瞳が合う。優しい瞳に戻っていた。ハーベイに見せたような怒りは感じられない。
 ガンダムはそれきり動かなかった。ミリスはゆっくりと歩み寄った。床も天井も崩れかけて不安定だった。だが、ミリスは臆することなく側まで近付いた。ガンダムはビルに張りつくように登って組み付いていた。
「助けてくれたの?」
 ミリスの頬を涙が伝った。安堵感と、それに深い愛情に包まれたような感じがしていた。
「ありがとう、ガンダム」
 ふと、ミリスの耳にうめき声が聞こえた。いけない! ミリスはリューンに駆けよった。背後で音を立てて何かが崩れ落ちる。振り向くと、窓側の壁や床が崩れ、ガンダムの機体が下に滑り落ちた。
 ミリスはそれよりもリューンの体が気になった。リューンは全身を汗だくにして震えていた。高い熱が出ている。虚ろな目を開けてミリスを見ると、
「な、んて、格好、してるの? 服ぐらい、着なさい」
 と、繋がらない言葉を発して、そのまま気を失った。
「しっかりして! リューン!」

 サバイバルキットには、銃創を治療するキットも入っていた。消毒し、弾丸を抜き、止血する。体内に弾丸を入れたままにすると、そこから壊死が始まり、敗血症にもなりかねない。だが、幸い、右肩の下と左太股の銃創から、弾丸は貫通していることが判った。細身の体が助けたのかもしれない。慎重に消毒し、止血を行った。キット内の簡易点滴を使う。リューンのヴァンガードには、彼女に合わせた内容の物が収められている。三本目の点滴の途中で、リューンの意識は戻った。
「どうなったの? ハーベイは? モハマドも。ミリス、あなた、大丈夫?」
 リューンの記憶は少し混乱しているようだった。撃たれた前後くらいから記憶が断片的な感じだった。
「判る? ガンダムが助けてくれたの。ハーベイは死んだわ。でも、モハマドも。大丈夫、あなたは助かるわ」
 リューンはぼうっと虚空を見て、静かに、そう、と呟いて目を閉じた。ミリスは痛みを和らげ、同時に眠気をもたらす薬を、水と一緒にリューンの口に流し込んだ。
「セルジ、セルジ、一人にさせないで、何処にいるの? 側に居て」
 うわ言のようにリューンは言った。ミリスはリューンの手をしっかりと握った。彼女は程なく、眠りに落ちた。薬が効いたのである。
 ミリスはようやく一息着いた。ガンダムはそのまま地面まで滑り落ちていたが、外部に破損は見られなかった。
 何故、勝手に動いたの? やはり、私が助けを求めたから、彼女が応えた? そうとしか思えない。
 ハーベイの死体は、どうしようもないので、上から瓦礫をかぶせて覆い隠した。飛び散った血や肉片は片付けようもない。朝日が昇るころには、吐き気を催す臭いが漂い、耐えられなくなってきた。
 きっかり六時間経った頃に、リューンは目を覚ました。もう記憶もはっきりとしていた。
 二人は直ぐに下に降りた。ヴァンガードはそのままだったが、ガンダムは外でうずくまっていた。
 リューンはヴァンガードのコクピットに入った。最初は着替えをすると言っていたが、エアコンを調整し、まだ取れない点滴を天井から吊るすと、服を脱ぎ捨てて、シートに身を任せた。その様子がかなり楽な感じに見えたので、ミリスは安心して、リューンを静かにしておいた。
「ゴメンね、しばらくこのまま一人にしておいて」
 ミリスがヴァンガードから離れると、リューンはコクピット・ハッチを閉じた。その時、リューンの瞳から零れる一筋を見たような気がした。
 陽は徐々に高くなっていっている。モハマドは何処にいたのだろう。そのままにはしておけない。早いうちに探しにいかなければ。
 ミリスがそう思っていると、突然、上空を巨大な陰が爆音を轟かせて通過した。
 見上げた時にはその姿は見えなかった。だが、爆音は止むことはなく、それはまた街に近付いてくる。今度はゆっくりとだった。
 ミリスの視界にそれが入る。シャトルだ。それもミリスが乗ってきたものより一回り大きな型だ。それは空中で静止すると、高度を落とし、郊外に降下した。
 念のため、サバイバルキット内にあった小銃をポケットに突っ込むと、ミリスは走ってシャトルに向かった。
 それはやはりヴァルハラからの迎えだった。ミリスはいきなり姿を見せないよう、慎重に陰から覗いてみたが、最初に降り立った人物が判り、慌てて駆け出した。
「ミリス!」
 その人が叫んだ。イルジニフだった。ミリスはそのまま駆けよって、彼女の胸に飛び込んだ。
「どうしたの? 大丈夫? シャトルが破壊されたって聞いて心配したのよ。何? 銃なんか持っているの? あなたには似合わないわ。何か酷い目に会ったようだけど」
 ミリスはあらましを話した。イルジニフはずっと聞いていた。時々、ふんふんと頷く。
「ハーベイは怪しいとは思ってたけど、あの男の知識は中々のものだった。御免なさい。あの男を使えると思っていた私のミスだわ。そのせいであなたに辛い目を。それにリューンやモハマドにも。リューンの手当ては救護班を連れてきてるから彼らに任せましょう。モハマドの捜索もこちらでするわ。それより」
 ミリスはイルジニフを案内して、ガンダムまで歩いた。そのままの姿で置いてある。あれ以来、ミリスは手も触れていなかった。
 良く見ると指には真っ黒になった血の跡が付いている。全身も埃だらけだ。後で、よく洗ってやらなければ。
「動いたのね、勝手に。自己防衛モードは切れてる。動くわけないんだけど」
 イルジニフは、先にコクピットに入って内部を確認した。
 ミリスはイルジニフに促され、ガンダムをビルの中に入れた。床はしっかりとしている。シャトルで連れてきた何人かが瓦礫を片付けた。
「どんな感じ? 変わりない?」
 ミリスはガンダムから特別なものは感じなかった。いやガンダム全体からは感じなくなっていた。ただ、その中で息づいているものの存在はいつでも感じることが出来る。だが、それもかつてのままだった。
 イルジニフは人指し指を顎に付けてそこいらを歩き回った。
「どういうことよ、カーク、それともソフィア? ダス・ゼルプストに何をしたっていうの?」
 コクピット・ハッチを開けて、昇降機を使ってミリスが降りる。ガンダムの電源は最小限のままにしてある。
 落ち着き無く歩き回るイルジニフにミリスが近付いた時、突然、ガンダムが鈍い音を発した。前屈みになり両手を地面に付ける。G−ボールを収めた腹の部分が大きく開き、コクピット部分が迫り出した。
 その瞬間、イルジニフが動きを止めた。あれっと言って胸に手を当てる。
「何かしら? こう、胸に何か触れたわ。何か懐かしい、愛しいものがこう」
 イルジニフの言葉が終わるか終わらないかと同時に、ミリスにまた、感情の流入が巻き起こった。突然、胸と頭を狂おしい愛情と慕情が切なさが駆けめぐる。それは耐えられないほど、ミリスの胸を締めつけ、ミリスはたまらずその場にかがみ込んだ。
 通常以上に張り出したコクピット部のハッチが開いた。それはいつもミリスが乗り込むところではない。第二シートのほうだ。
 何、何が起こっているの?
 ミリスはそれを凝視した。イルジニフも同じだった。
 開いたハッチから細く白い腕が伸びた。這い出すようにそれは姿を現わす。ミリスとイルジニフは弾かれたように同時にかけ出した。
 それはもがきながら、コクピットから抜け出し、そのまま滑って落下した。ミリスは、それが地面に叩きつけられないように、自分の体をクッション代わりにして受け止めた。三人はその場に倒れ込んだ。
 緑色のゲル状のものを全身に付着させたそれは、ミリスの体の上で暴れ回った。うめき声を発して、手足を必死でばたつかせている。ミリスは激しい愛しさに襲われ、それをかき抱いた。
 力一杯、抱きしめる。ミリスの頭の中は、もうちゃんとした思考はしていなかった。ただ、溢れ、渦巻くような愛情に身を任せて、それを強く強く抱きしめるだけだった。それはミリスの胸の中で大人しくなり、そして、同じようにミリスの背中に手を回して、その体に強く抱きついてきた。
「そんな、馬鹿な、何? 何なのこれ」
 イルジニフはそれを見て、驚愕する。ミリスは初めて自分が抱くものをまじまじと眺めた。
「ミ、ミリスが」
 イルジニフは言葉を発せなかった。ミリスは凍りついた。彼女が抱いていたもの、それは、ミリスだった。姿、形は全く同じ。ゲル状態だったものは、溶け出してその裸体を伝っていた。まだ幼い胸も細く長い脚も、色白の体も、そして、その顔も。全て鏡でいつも見ているものと全く同じだった。唯一、頭髪は伸び放題で、濡れて重くなった黒髪が腰の下程まであった。アンダーヘアも疎らながら、あった。それ以外は、ミリスと瓜二つだった。
「カ、カノン・フォルム」
 イルジニフが言う。
「そんな馬鹿な。人型にはならないはずなのに。しかも、これはクローン? ミリスのクローンだわ。一体、どうなっているの?」
 イルジニフが叫んだ。ミリスは、その声に怯えたもう一人のミリスを、更に力を入れて抱きしめ、そして背中を撫でた。カノン・フォルムは、ミリスの胸に顔を押し当ててずっと震えていた。
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