第十二話 「記憶」


 光の線がアスクの、いや、彼の視界をすべて飲み込み、そこにあった風景そのものを優しく包み込んだ。
 何も無い白い世界。違う・・?光だ。俺は、光の中を駆けている。
 それが実感となって心を満たした時に、一つの風景が脳内に直接刻み込まれた。
 セピア色の、古びた写真の様な風景が視界一杯に広がる。何処かの、教会か?塀には『オフリエル孤児院』とあった。
 十字架の掛かった尖塔が見える。豊かな緑。季節は春の様だ。
 セピア色が解けた。実際の光となって、視界に色が戻ってくる。
 そして、時は動き出した。現実という名のペンが、時間という名の紙に文字を書き連ねていくかのように。
『オルバル先生!』
 子供の声。
(えっ・・!?)
 それが、自身から発せられているものと気付いたのは数瞬遅れてのことだった。
『どうしたのですか?クルス君。』
 優しい声音。初老の女性が、柔らかい笑顔でこちらに向ってくる。
『あのね、今日、ザリガニ捕まえたよ。すっごくでっかいの!』
 そういって顔の前に突き出した手には、赤い外殻を纏ったザリガニが一匹。威嚇するように、初老の女性、恐らくはオルバル先生に向けて構えていた。
『まぁ、本当ね。・・・リーフちゃんも、捕まえたの?』
『う、うん・・。』
 声のした方を振り向くと、少女が泥塗れで立っている。その手には、ザリガニではなく小さなカニが存在した。
『そう、良かったわね。じゃあ、写真を撮ってから、また放してあげるのよ?』
『は〜い!』
 二人の子供は同時に返事をした。すると、周りから子供が更に集まってくる。
『あ〜、二人して写真とって貰ってる!ずり〜!』
『ねぇねぇ、先生。わたしたちも入って良いでしょお?』
 庭は騒がしくなって来た。先生はそれを宥めすかすように写真を手にして、
『ええ、皆入りなさい。早くしないと撮っちゃうわよ。』
 それは、幸せな風景。彼の少年時代の、優しい記憶。
 場面が変わる。時は、夕刻。
 いつもの様に広場で遊ぶ子供たち。ブランコや滑り台などの定番や、シーソーなどで遊ぶ少年少女の、無邪気な笑い声だけがこだましていた。
 ガシャン!
 孤児院の正門が乱暴に開け放たれた。入って来たのは、夏だというのに黒いスーツと帽子をかぶった男の集団。
『何事ですか?』
 オルバル先生が慌てたように外に飛び出して来た。いや、慌てていたのだ。先生は男達に近づくと、孤児院の中の、事務所の方へと連れていった。
『クル兄・・・。』
 ぎゅっ、と手を握られて、彼が振り向いた。大きな瞳が揺れている。不安と、怯えに。
『大丈夫だ。何も無いさ。』
 ぎゅっ、と力強く握り返す。義妹の心を安心させる、その為だけに。
『だから、泣くな。』
『うん。リーフ、泣かないよ。』
 言葉とは裏腹に、目に一杯に溜まった涙は今にも溢れそうだった。
 暫くして、男達が扉を開けて戻ってくる。・・・戻ってくる?そう、自分の方へと早足に歩いて来た。
『待ってください!』
 先生の叫び声が聞こえる。一拍おいて、オルバル先生自身が扉から駆け出して来た。
 同時に、男達は彼の胸座を掴む。何だ!?と、混乱して、彼は四肢を無茶苦茶に振り回した。
『何だよ、止めろよ!離せって!』
『離してください!お願いします、子供たちには手を出さないで!!』
 彼と先生の悲痛な叫びが孤児院の敷地内に響き渡った。一拍おいてから、今度は黙って事態を見守っていた子供たちが男に群がる。
『クル兄ィ!』
 一番近くにいた義妹が男の足に掴まって、泣き叫んだ。男はそれを虫けらでも扱うかのように振りほどく。
『てめぇ!』
 彼は大きく腕を振りかざした。それを合図に子供達全員が突撃を開始する。
 パン!
 後ろに控えていた男が銃を取り出していた。その銃口からは既に白い煙がゆらゆらと流れており、銃口は子供たちの一歩手前の地面を向いていた。先頭の少年の手前には、そこから吐き出された熱く焼けた鉛の塊が地面に穴を開けている。
『なに、この子を少し借りていくだけですよ。ミス・オルバル・オフリエル?』
 男の余裕の声。口の端は持ちあがり、片手で振り下ろされる筈だった彼の拳を握っている。
『ちゃんと、上の指示は得ているのですよ。貴方にそれを妨害する権利も無ければ、意見する事も叶わないのをお判りですか?』
 孤児院の全員が、呆然としている中で男達は車の方へと歩を進めていった。
『クル兄!』
 一番最初に気を取り戻した義妹が叫んだ。そのまま駆け出そうとするのを、オルバル先生に掴まった。
『リーフ、止めなさい!』
 オルバル先生は、確かに泣いていた。が、リーフは必死に身を振って拘束を解こうとする。
『クル兄を返せぇ!』
『きたねぇぞ!クルスを返せ!!』
 子供たちが一斉に喚き始めた。彼はそっちに顔を向け、男のごつい手を振り解こうとする。
『リー・・!』
『黙れ。』
 ガッ、と男の手がアスクの口を塞いだ。それでも必死に、彼は叫ぼうとする。
 ・・・オルバル先生!助けて!!
 が、先生はただ涙を流すだけ。彼女の口が、ごめんなさい、と繰り返していた。
 ・・・コーズ、レイ、アセム、皆!
 少年達は必死に叫んでいる。女の子は全員、声を上げて泣いていた。
 ・・・リーフ!
 最愛の義妹は、先生の手で掴まれていてなお、泣き叫ぶのを止めない。その姿は痛々しく、目を背けたい光景だった。
 ・・・誰か、助けて!
 その叫びは、声として口から出る事すら出来なかった。そのまま黒塗りの高級車に押し込められ、彼は何かを飲まされて気をいった。

 暗黒に飲み込まれた意識が覚醒するにしたがって、アスクがアスクとしての自我を取り戻していった。
「ここは・・?」
 自分を包んでいた光が消えていくと、そこはまた、星々が煌く懐かしくも恐ろしい漆黒の宇宙へと変わった。
 静かで広大な空間に、ゆらりと気配が滲み出して来た。
「クルスか?」
 気配が前に移動したと思ったら、そこから白い影の様なものが出現し、それが段々とクルスの形となって静止した。
「みっともないとこ、見られたな。」
「気にすんな。お互い様だろ?」
 アスクがクルスの過去を垣間見ていた様に、クルスもまた、アスクの記憶を見ていた。祖父が死に、両親も後を追うように急死したその時を。アスクには、クルスの感覚があった。自分の中に、もう一つの存在を感じていたのだ。
 双方が過去という悲しみを背負っていた事を理解し、共有した感覚は何者にも侵す事の出来ない物である。それは、人の高みであり、精神の極みであった。両者の思念が交じり合った瞬間に得られる、一種の融合なのだ。
 融合とは?
 思惟の共有であり、それこそ第三のルネッサンスに相応しいものではないのか。
 何との、融合なのか?
 人類だけではない。より広い、宇宙という名の全ての父。世界の中の一つである事を実感する瞬間。
 ニュータイプ。
 その言葉が生まれてから、もう何十年の月日を重ねたのだろうか。革新はその時から始まっていた筈である。にも関らず、何故再び戦争が起きてしまったのか。地球連邦政府の絶対民主主義の中で一世紀を超える時を刻んだ人類は、その甘い言葉に惑わされているのかもしれない。民衆の政治に対する感心は、ハウゼリー・ロナが死んだ時に既に消え失せていたのかもしれない。一種の諦めの中に、クロスボーン・バンガードが全く新しい思想を実現させようと足掻いているのは、この広すぎる宇宙の中では滑稽にしか映らないのかもしれない。
 そんな事は、今の二人にはどうでも良かった。彼等は時間すら超えた場所に居るのだ。二人の思念だけが具現化した、永劫の時間は、アムロ・レイとララァ・スンの接触から続くニュータイプ達の共有して来たものと一緒なのだから。
 二人は無言だった。それでも構わない、自分達は安らぎの中に居る。心地良い空間の中に浮かぶのは、彼等だけだった。
 彼等だけ、だったのだ。次の瞬間に飛び込んで来たもう一つの温もりは、何者にも代え難い人の体温の温かさである。
「ん?」
 もう一つの思惟が飛び込んで来たのがアスクには理解できた。同時に、胸元の石が強く発光し始める。
「お兄ちゃん!」
 アスクとクルスの間に突如として出現した少女。アスクが一番知っている少女は、確かにクルスの記憶の中に存在した。
「リーフ・・。」
 アスクが呟く。名前を呼ばれた少女は、アスクと、驚愕の表情を貼り付けられたもう一人の顔を、目を白黒させながら交互に見ていた。
「え?お、お兄ちゃんだよね・・・・。」
 それ以外に何が考えられるのだろうか。そこでアスクはふと思ったが、この場合はどちらの『お兄ちゃん』の事を言っているのだろう。
「こんなとこで会うとは・・今日は忙しい日だ。」
 フウーッ、と長く息を吐き出すクルスは、リーフにとって本当の意味の『お兄ちゃん』であった。
「クル兄・・だよね。でも、なんで?」
 リーフの困惑が、アスクには手に取るように理解できた。外見上の狼狽を見ただけではない。まるで、本人の心をそのまま感じているかのような錯覚。
 錯覚ではない。それは、ニュータイプ同士の意識の共有。近い内に訪れる、人類全体が手に入れる相互の深い理解。無限に広がる空間の中にあって、彼等はどんなに離れていても分かり合える。
 クルスもそれが判っているのだろう。彼の口元に、微笑が漏れた。
「悪いなリーフ。せっかく会えたのに、俺はもう死んじまったんだよ。」
「え、えぇ!?」
 ここに来て、クルスに会って、それだけでも普段から大きい瞳を更に大きくしていたと言うのに、リーフは今度こそ限界まで目を見開いた。これでもかと言うほど広げられた瞳の下で、口もポカーン、と開け放たれている。
「いやまぁ、更に悪い事に俺が殺しちまったんだがな。」
 気まずくなって頭を掻きつつ、アスクは口をもごもごと動かした。
「・・・・・・・・。」
 もはや何も声にならないのだろう。リーフは黙って固まっている。
「にしてもよ。」
 暫く、固まったリーフを愛しそうに見つめていたクルスが唐突に放った言葉だ。
「ん?」
 それが自分に向けられていた事に気付いたアスクが首を傾げてみせた。
「まさか、お前とリーフが知り合いだたぁな。」
「お前こそ、何気に兄貴だったんだ。」
「兄貴っても何もしてやれなかったからな。ま、人生何があるかわかんねぇもんだ。」
「何言ってんだ。」
 クルスはそこでふと視線をリーフに移した。
「リーフは・・・。」
「へっ?」
「今、幸せか?」
「う、うん。辛い事もいっぱいあるけど、幸せだよ。」
 辛い事。リーフの脳裏に浮かんだのは、義理の親の死に際だった。瓦礫の下敷きとなった二人。遺体から流れ出る異常な量の血液から、皮膚が向けたピンク色の肉までがグロテスクに蘇る。
 ほんの一瞬だけ掠めた絶望の映像。リーフの思念はアスクに届く。それが具体的な融合であり、思惟の共有そのものであった。
 でも・・・、とリーフは思う。一人の少年がが彼女の絶望を振り払ってくれた。自分にとって、一番大切な人。その人が私を奈落の底から救い出してくれたのだから。
 四つも年上の男の子。五年程前に隣に引っ越して来た冷たい瞳の少年は、優しい男の子になっていた。悲しみに沈む彼女を励まして、一緒にいてくれた。だから、自分はここまで来る事が出来たんじゃないか。
 あれはいつの日の事だっただろう。友達と喧嘩して、公園で一人泣くリーフに慰めの言葉を掛けてくれたアスク。一緒に友達の家に謝りに行ってくれた。それからだった。リーフが彼に抱く仄かな気持ちが芽生え始めたのは。彼女がアスクを『お兄ちゃん』と呼んだのは、義兄と彼を重ねていただけではない。最初は、その穴を埋めてくれる存在だったのが、今ではそれ以上の位置を占める者になっていた。
「そっか、幸せか。」
 リーフの思惟を受け取ったクルスが寂しげに漏らした。兄貴の思いは複雑の様だ。
「アスク!」
「あ?」
 いきなりこちらに矛先が来たので、アスクは正直ビビッた。
「リーフを泣かせたら七代先まで呪ってやるからな!」
「いや、この場合シャレにならん。」
「シャレじゃねぇんだよ!」
 アスクはクルスの瞳をじっと見た。成る程確かに本気の目だ。
「・・・OK、分かった。元々泣かす気なんかねぇよ。」
「解りゃぁ良いんだ。じゃあな、二人とも。」
 クルスは笑顔で二人に手を振った。
「ああ、じゃあな。」
「クル兄、バイバイ!」
 クルスの背後で夥しい程の光が広がった。まるで、ここに来た時の様に。
 その光がアスクの視界を包み、暖かい色の光は宇宙へと拡散していった。

 一発目のビームがコックピットを四散させ、二発目がメイン・カメラを吹き飛ばした。スリー・ショット・バーストのメガ粒子砲の最期の一発目がメイン・エンジンを吹き飛ばし、ハーデースはガンスの時の様にゆっくりと身を屈めるようにしてから、紅い光芒へと変化していった。
 同時に拡散したクルスの思惟は、ペルガのサイコミュが拾い上げてアスクの脳に最期の言葉を反響させた。
 『約束、忘れんなよ!』確かに彼はそう言った。
「たく、何言ってやがんだか。」
 フウーッ、と長く息を付くと、アスクはシートに体重を掛けてバイザーを上げた。
 ペルガのマルチ・ディスプレイは、戦闘終了目前の散発的な光を随時映してくれた。驚く事に、クルスとあれだけ激しく戦ったと言うのに、コックピットのモニタや計器類に異常は見受けられなかった。それだけではない。コンソールは機体の状態をオール・グリーンと示していた。
(こいつは本当の意味で化け物だよな。)
 ニュータイプや宇宙人の前に、まずこれが一番恐いような気がするのだ。アスクはもう一度深呼吸をすると、操縦桿をそっ、と倒した。コックピットから各配線を伝わった電波が、指令通りスラスターを点火させた。ペルガ・ネロスはそのまま第二戦速でクロスボーン・バン ガードの艦隊の方へと機体を進める。
「疲れた・・・。」
 ヘルメットを脱いで、顔中の汗をシート裏に何気なく置いていた箱の中から取り出したタオルで拭いた。
『今日はいろいろあったもんね。』
 ふと、頭の上から聞こえてくる声。幼くも優しい声。
 同時に、色素の薄い、白くて細い腕が後ろから伸びて来た。
「俺、寝るわ。」
 そっ、と細い腕に手を添える。顔を上げると、リーフの顔が、優しい瞳が見下ろしていた。
『疲れたもんね、ゆっくり休もう。』
 ぎゅっ、と抱いてくれる少女がアスクには有り難かった。剥き出しの肩がか細くて、今にも折れてしまいそうに感じる。
「ん・・・。」
 アスクは目を閉じた。微妙にシートを倒すと、後頭部に柔らかな双丘が当たった。
『おやすみなさい、お兄ちゃん。』
 リーフの暖かい体温を幸せに感じながら、アスクは深い眠りへと落ちていった。その胸元で、彼女から貰った石が、太陽光に輝く地球の如く蒼く神秘的な輝きを放っている事に、彼は気が付かない。
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