エピローグ


 少女が人の意思を感じた時、彼女は自室の掃除の途中であった。
 リーフが感じたのは、絶叫。幾多の断末魔の中で、彼女の愛しい少年の苦痛に歪んだ叫び声が全身を駆けたかのような、そんな感覚が明瞭に脳に届き――いや、直接、脳に届いていたのだ。それが全身に響き渡ると言う異常な状態に、脳が一瞬だけ、錯乱した。届いてきたアスクの思惟が、余りにも生々しいものであったが為に、少女の無垢な精神が飽和したのだ。それを回復させる為の、一時の反射的な自衛行動であったのだろう。
「あっ・・・・・・!」
 トクン――
 少女の鼓動が早まる。視界が左右にぶれ、次にはリーフはアスクの『今』を理解した。
 ペタン、と少女はベットに腰を下ろした。先の立ち眩みの影響もあるが、一番は精神集中の為だ。リーフの繊細な指が、首から下げられた紐に触れる。それを引っ張り出して石を取り出した。
 淡く、青い光を発するそれを、少女は小さな掌で包んで胸元に翳す。
「アッくん・・・・・・」
 リーフは意識を――彼女の願いを集束させた。それを、掌中の固体へと流していく。
 それは、川のイメージ。さらさらと静かに、しかし確実に流れ行く小川の水の如く、彼女の思いが石へと流れ込んだ。
 掌中の発光が強まる。淡い光が、目映い蒼光へと変わり行く。
 少女の暖かい思惟が、石の発光を強めていた。リーフの純粋な思いが、石本来の力を引き出す。
 そうして、彼女の穢れの無い気持ちがアスクへと向けて発信されていった。距離や空間と言った弊害も、無垢な思いやりの前には、障壁にすらなりえない。それがリーフの純白の姿であり、美しい本性なのだ。

 大丈夫、怖い事なんて無い。だって、貴方には私が、いつまでも一緒に居られるから――

 その思いが、少年を救う。



 何が原因かは、分からない。
 アスクは唐突に目を覚ました。
「――アグゥッ・・・・・!」
 身を起こしそうとして、失敗する。全身に残る鈍痛に顔を顰め、無意識的に身を捩った。が、そうする事で更に痛みが増してくる。
(何だ・・・?)
 アスクは気付いた。全身の鈍痛も辛いが、それよりも酷い場所があるのを。まるで熱を帯びたかのような痛みを発するそこを特定しようと、再び瞼を開く。暗闇から眼球を解放すると、意外と明るい光が水晶体に集中する。一瞬だけ、光に慣れない瞳がスパークしたが、すぐに通常の状態に戻った。そのせいで、コックピットの惨状が生々しくアスクの脳に映し出される。
 モニターは半数近くが使用不能。ノイズ線が入っているのはまだ良い方で、完全に沈黙しているものも幾つか存在した。
 何故、モニタが死んでいるのか。その答えは明らかだ。コックピットの右下が変形しており、それがアスクの右足を潰しているのだから。
 アスクは目の前のコンソールを見る。奇跡的にも生き残っていたそれには、完全に制御系が独立した機体の情報が映し出されていた。コックピットからの命令系統が完全に寸断されたようだ。それは、マリーと同じ同じ状態である。
 くそっ、とアスクは毒づいて、拉げた全天モニタから足を引き出そうとした。が、激痛。
「くぁっ!」
 呻き、眉根を寄せる。一瞬、自身の身に何が起きたのかが理解できずに、少年は再び右足に力を入れ――激痛に、再び喘いだ。
「折れてる・・・・・のか?」
 口に出して、そうなのだろう、と確信した。つまり、足を引き出すのは不可能。こうなると、機内からの脱出も不可能となる。万事休す、とはこういう事を言うのだろうな、とアスクは思った。
 痛い――!
 脂汗を額に浮かべ、再び呻き声を上げる。心臓が脈打つ度に、痛覚神経が敏感に反応した。まるで、血流によって広がる血管の小さな動きにさえも、折れた骨を刺激しているかのように。
 一頻り痛がった後で、アスクは本格的に足の引き出しを諦めた。残された手段は、救出を待つ事だけ。
 ふうっ、と息を付いて、シートベルトを外した。同時に、深く。体をシートに沈める。
 半身をほとんど破壊されたデナン・ゾンの外装は酷いものであったが、それほどの衝撃すらも吸収したシートは柔らかく、体をしっかりと包んでくれる。流石はマリー専用機だ。ロナ家のものを守る為に、最高レベルのシートを用意したのだろう。それに座れるだけでも、平民のアスクには信じられないくらいに有り難い事なのかもしれない。
 が、中の者を必要以上に保護しようとした事に、このデナン・ゾンの欠陥があった。コックピットに出来るだけ衝撃が来ない様にしている為に、そこだけが独立してしまっているのだ。それはつまり、配線の弱体化に繋がる。少しの衝撃で簡単に寸断された操縦系統が、今のような状態を招いた。
 背中で、シートの柔らかい感触を受け止める。そうして体を楽にさせる事で、心も多少は和らいだ。余裕の出来た精神が、アスクに向けられた『声』を聞いた。
 それは、囁き。怨恨の絶叫や、無念の叫び声ではない。優しく、温かい、慈愛に満ちた純粋な囁き声。その中に含まれる、心配しているかのような気遣いの感情が、精一杯に、しかしどこか控え目に、アスクを呼んでいた。
「リーフ・・・・・・」
 彼は、呼び声の主の名を呟いた。それは、アスクが世界で最も愛しく感じている少女の名前。今、一番聞きたいと思っていた声であり、一番感じたいと思っていた感触。それがアスクの精神を満たしてくれる。
 ――大丈夫だよ
 先ず聞き取れたのは、少女の一途な、そして正直な気持ち。その後に続く言葉に、アスクは苦笑した。
「文法がおかしいよ、それ」
 言いながら、ヘルメットを脱ぐ。頭を包んでいた狭い空間から解放され、少年の心は更に広く、知覚領域を拡大させる。
 そうする事で、リーフの声をもっと身近に感じる事が出来た。
 コックピット内部は、右下が拉げているせいで多少は酸素を抜いている。だが、特別に接地されたパイロット保護機構が自動でトリモチを排出して、マルチディスプレイに空いた穴を塞いでくれていた。そのため、空気は十分持つだろう。ならば安心して良い。
 安全を確信したアスクは、ノーマルスーツの胸元をはだけた。そこには、温かい何かをアスクに供給してくれる物がある。
 ゆっくりと、それを取り出す。首に下げられた紐の先には、今までよりも強く光を発するあの石が存在した。
 アスクはそれに、優しく微笑みかける。自分の気持ちが、石から伝わってくる意思によって暖められているのを、彼は理解した。
 多分、自分はリーフの声によって、意識を取り戻したのだろう。彼はそう、確信する。
 アスクが石を見つめていると、不意にコックピット内に気配を感じた。顔を上げると、目の前にリーフが居る。
 石と同じ、青い光を体に纏わせた少女の顔が、目の前にあったのだ。だが、アスクはそれに驚かない。きっと来てくれるだろうと、彼には解っていたのだから。
 そっと、リーフの手がアスクに向って伸びてきた。微かに残光を残しながら近づいてくる繊細な指に、彼も顔を近づける。
 上半身を動かしただけで、右足に激痛が走る。が、そんな事よりも、今は少女の温もりを得る方が先決だ。アスクが今、求めて止まぬものは、リーフの存在なのだから。
 リーフの指先が、アスクの頬に触れた。
 それはとても柔らかく、温かい指。実際にアスクが触っていた、甘い香りのする、少女の柔肌だ。
 触れ合う肌が心地良い。人の体温を傍で感じる事が、ここまで心落ち着かせるものなのか。
 ――だから、赤ん坊は人の体温を求めるのだろう。だから、男は母親を欲するのであろう。
 かつて、ジオンの総帥であるキャスバル・ダイクンことシャア・アズナブルも母を欲した。英雄と言われたアムロ・レイも、母の愛情を求めた事がある。男が女に求めるのは、母の温もりであり、少女のような無邪気さなのかもしれない。
 アスクは、頬に触れた腕から少女を抱き寄せた。彼女の全身を感じていたかったからだ。
 あっ、とリーフが声を上げる。が、抵抗せずに、アスクの胸に体重を掛けてくれた。
 その心地良い重さに、アスクは思わず、リーフの髪に触れる。サラサラとした、心地良い手触りの向うで、まるで小猫のように気持ち良さそうな顔をした少女の小さな顔があった。それが堪らず愛しく、左腕で華奢なウエストを抱きしめる。
 彼女の広い心がアスクを受け入れてくれる事が、彼には酷く嬉しい事だった。
 同時に、その器を羨ましく思う。彼は、自分が手に掛けてきた無数の人々の命を背負う事が出来なかったのだ。それは、罪悪感の欠如である。幾多もの命の叫びを、何度も耳にしてきた筈なのに、彼は結局、心底の罪悪感に捉えられる事はなかった。これは幸福であり、最大の不幸なのだ。
 両親を失った後、アスクはずっと虐げられてきた。それらのストレスが暴走しなかった事が、精神に大きな影響を及ぼしたのだ。暴走しなかったが為に、彼の一部分が壊れた。命の尊さを頭で走る事が出来ても、それを真に理解する事が出来なかったのだ。それは脆弱な心の基盤となったのだろう。
 だが、今の彼は違う。受け入れてくれる少女が居る。それは彼にとって、この世で一番愛しい女であり、第二の母親であった。
 アスクの人生の中で、一番の幸福が、リーフと出会えた事なのだ。今、最も感謝すべきは、リーフと一緒に居られる事なのだ。それを感じる事が出来た少年は、この世の素晴らしさを悟る。
「リーフ・・・・・」
 アスクは、リーフの体を抱く手に力を込めた。
 なぁに、と言う風に、少女が顔を上げる。その大きな瞳に真っ直ぐに見詰められると、少年は安心感を憶えた。これが真にお互いを信頼している事の証のように感じたからだ。
 良く、吸い込まれそうになる、と言う例えが出る。だが、それは既に吸い込まれ、抱擁されているものが感じる事なのだろう。アスクも、包み込まれた時の様な安堵に身を任せながら、
「俺は、無責任な人間なのかな・・・・・・。結局、俺は人殺しだ」
 自重気味に笑う。心の弱い部分を吐露する事が出来る、唯一無二の存在へと、少年は愚痴を零した。
「そんなのが、幸せになってて良いのかな? クルスは生きろって言ってくれたけど、他の人はそうじゃないんじゃないか、て思うんだ・・・・・・」
『大丈夫・・・・・』
 リーフの声が聞こえた。少しエコーが掛かるような、そんな声。尾を引く事で、かえって神秘性が出てくる。アスクは、良いな、と思った。
『アッくんは強くなったよ。そう思えるようになったんだから。だからお兄ちゃんも許してくれたの。そして、お兄ちゃんが許してくれたんだから、アッくんは生きるべきなんだよ。幸せになるべきなんだよ』
 リーフがアスクの髪を梳いた。何だかくすぐったい。
「ありがとう・・・・・」
 アスクはリーフの胸に顔を埋める。そうする事で、余計に彼女の体臭が感じられた。甘く、彼を安心させる匂い。鼻孔を刺激するそれが、アスクの心を満たしてくれる。
『だから、これからの事を考えようよ。アッくんが幸せになる為に。ね?』
 アスクは、少し唇の端を上げた。柔らかい微笑。
「・・・・・そうだな。お前を幸せにしてやらなきゃいけないんだもんな」
 難しい事だ、と思う。でも、男として、それはやり遂げねばならない事だ。
 やってやろう。アスクは心にそう決めた。これから、どんな困難があったとしても、彼女の元へと帰るのだ。
 それから、少年と少女は将来について語り始める。始めはポツポツと、理想だけを。そして、二人の為の道を創る為に、より期待を大きくする為に、話し合った。
 コックピットの全天モニタは、半分以上が死んでいた。だが、残りが映すのは、宇宙。光り輝く暗黒が全てを満たし、全てを産み落とす。生命の始まりと終りの場所であり、広すぎる現世。宇宙の輝きとは、人の意思。今までの全ての人間が集束させた意思が輝きを持たせ、 人に空を見上げさせるのだ。それは喜び。それは純真。そして、全ての幸福。
 そんな輝ける闇の中で、少年は少女と共に幸福の中を揺蕩う。いつまでも、その心を変えずにいようと、決心して。

宇宙の輝き 完
BACK     目次     NEXT